明治43年九州日報記事

電車についての解説

21追悼の書に見る毛利輝雄

「追悼の書」には44名の人々が毛利を追憶して、その出会いと毛利の人となりを綴りそれぞれに惜別の一文を寄せている。以下にその抜粋したものを挙げることにする。
 注:( )は当時の役職など、「 」は追悼文につけられている題目を示す。

長谷川正道(陸軍少将)「初期のTGEと毛利君」
 「…当時の自動車製造の苦心は並大抵のものではなくて、まず自動車用鋼が中々手に入らなかった。リアーアクスルやチェーンの試験機もなければ、殊にスプリングは計算もうまくいかなければ材料も良いのがない。バルブ等は鋳物で作った事さえあった。ある試験で星子君が運転して自分が助手台に乗り権田原の坂を上り始めた処が、逆行をはじめ、ブレーキは利かず田圃に落ち込んだ。車の横腹に東京瓦斯電気TGEと書いた大きな看板をつけていたが、直ぐに取り外し、近くに輜重兵大隊があったので車を引き揚げてもらった。その直後に直ぐにくだんの看板を取り付けて事なきように走り出したことがあった、がこれは毛利君の仕業だろうと話し合った…代用燃料則ちテトナリンをドイツから取寄せてその試験を毛利君に頼んだ事もあった…トレーラー、木炭車、或いは六輪車のキャタピラーだとか色々なものを出したが吉崎君と毛利君と則ち営業と工場とが実によく連絡をとって国産自動車のために骨を折ってくれた…兎に角TGEの今日あるは毛利君のおかげである…」
 陸軍技術審査部が軍用自動車調査委員会設置するころ、フランスから帰朝した大尉時代の長谷川正道は、陸軍に自動車の有用なることを認め技術審査部員とともに田中義一大将に軍用自動車確立を進言している。


天谷知彰(TGE顧問・陸軍少将)「毛利君を憶う」
「毛利君は実に我自動車界に於ける尊敬すべき功労者であった。君は我自動
車工業の極めて幼稚な時代から会社の自動車部に在って工場の業務に従事し
終始一貫技術の改善向上、工場の整備発展に全力を傾注し、苦心惨憺遂に会
社今日の隆昌を招来せしめ斯界の為大に貢献せらたのである…陸軍のある検
査官が『検査官として会社に対し注意を与えたり要求をしたり或は希望を述
べたりする場合には毛利君に話しておけば間違いも無く能く徹底して安心
だ』と云ったことがある。…会社に対する熾烈なる責任観念は往々耐ゆ可か
らざる病苦に耐え一身を顧みず任務の遂行に邁進せられたのである…」
三木吉平(陸軍自動車学校陸軍技師)「毛利君を憶う」
「菜葉服に身をを包んだ痩躯鶴の如き毛利君が工場の一隅に職工と伍して一
心に何事か見入っている姿を見た人はこの人が我が自動車工業界の巨擘瓦斯
電の自動車工場長であろうとは誰が気の付く人があろう。…二十年も前の我国が漸く自動車製造に手を染めた頃『せめて一ヶ月に二、三台でも自動車が自分の工場で出来るようになれば…』と口癖のように語った毛利君の身体がだんだんと痩せ、額の皺が増え鬢髪の白きを加えるとともに、我が自動車工業界は飛躍的の進歩を遂げた、転た感慨切なるものがある」


白澤 元(陸軍自動車学校研究部)「毛利君の思い出」
 海外実業練習生の同窓で、毛利がクリーブランド自動車で研修のときには、後に毛利も学ぶミシガン大学で自動車工学を学んでいた。
 小野盛次※51(鉄道省運輸局自動車課※ 52)「毛利さんの想い出を語る」
「大正八年日本自動車の柴藤啻一氏が洋行される時に紹介されて始めて知り合いになった。以来十八年ものお付合いで自動車界に於ける私のお付合いでは、星子さんを除ては一番古い友達で親交か深かった…」
 大正15年(1926)、東大で国産自動車の性能試験のときTGE、ウーズレー、オートモが選ばれTGEの代表として毛利が立ち会った。合間には内燃機関実験室裏で1本の木苺の下で談笑した。昭和5年(1930)、鉄道省主催で国産自動車性能検査があり、小野がTGEの検査担当で毛利が瓦斯電代表であった。毛利は小野に、欠点だけを早く知らせてもらいたいと申し出、技術屋の鑑を感じた。その風貌は誰でも感じているように、国士肌な豪腹な人柄であるが同時に温情を持って人に対した。技術屋が持つ自己的なところはなく着々と研究追及を重ねる人で、これが後に出る「ちよだ号」を生み出したと思う。
木いちごの花咲くころぞなつかしく ちよだの栄え祈りし君を
永に眠りし君の夢結ぶ  ちよだに乗って極楽の道
内山直(常務取締役)「毛利君のことども」
 「…私が会社に来たときは、宿痾のために長く欠勤をしておられた…玄洋社育ちの精悍の気が眉宇にあらわれ、竹を割った様なすっきりとした性格は人に愛せられて居った。…君は喘息のために痩せていたが元気は満ち満ちていた…、自動車の苦境時代に無理をしたことも彼が身体をこわした原因であった。…彼はいつも『こんなに大きく立派な工場にして貰ったのであるから働かねばならぬ』と言っていた…」


谷口賛三郎(支配人)「毛利君を憶う」
 「毛利君は明朗で嫌味のない男であった。よく語りよく笑う男であった。福
岡人特有の熱血漢で涙脆い所謂親分肌を多分に持っていた。怒るときは随分激しいが、後は光風霽月
※ 53至ってさっぱりとしたものである…工場では
 「山賊」のニックネームのようにとてもバンカラで、…我武者羅で風采には拘泥しないかに見えたが、銀ブラをするとき等はネクタイの結び方、洋服の着こなし具合は実にすっきりとしたもので、何処となく垢抜けがして矢張り洋行帰りだけの値打ちはあると思った。…送葬の日は天も哭して雨頻りに注ぐ内に多くの人々から心からなる愛別に去り行く英魂に冥福の多かれかしと祈ってやまなかった事であった」

横濱 俊(支配人)「逝去を悼みて」
「…毛利君は非常に緻密な頭脳の持ち主で、涙ぐましい努力を払い、自己の身体を投げ出して一人歩きの出来る自動車を作り上げる迄の彼の苦心を想う時困難なる創業時代の事が追憶されて感慨無量である」

星子 勇(自動車部長)「自動車の為めに一生を捧げた故毛利君」
 「君が大正六年、福岡工業学校を卒業して日本自動車会社に入社した当時、同社では数年前より乗用車を製作して居った。其の後製造上の困難から遂に中止する事となった。自動車を製造するには材料並に製造の方法から研究しなければならぬ。欧米の自動車製作技術を習得したいと云う希望は此の時に起こった。
 大正九年我社に入社し農商務省海外実業練習生となり、其の志を達し、米国「チヤンドラ」自動車工場に実習し続いて欧洲各国の自動車工場を視察し帰朝以来死去する迄自動車工場に勤務した。君は終始一貫自動車の為めに一生を捧げた人で、我が自動車部の今日の隆盛は実に君に負う所が多い。君が帰朝した当時は我社の自動車製造の最も不況時代であった。飛行機用発動機に力を注ぎ殆んど毛利君の努力をかへりみない時に、君は自動車工場を盛り立てゝ見せると言うて僅かの技工と共に熱心に自動車の組立てに従事した。
 実に君は自動車部中興の恩人である。君の一生を通じての念願は国防上、国家経済上最も重要なる自動車工業の確立であった。今や朝野を挙げて自動車工業確立に遇進し、近き将来夫の確立を見んとする秋、君の一生の念願を実現せずして長逝されたのは痛惜にたえない。毛利君は福岡の大先輩頭山満翁に私淑して玄洋社の薫陶を受け、正義の念に強く、古武士の風貌を備え、権勢に阿ねる様な事は蛇蝎の如く嫌うた。正古林卯三郎(航空機部副部長)「毛利君を想う」
 「…大正八年頃の我が自動車工業は実に幼稚極まるものであって、計画・材料・工作等現今の技術に比しお話にならないものがあった。従って我等の苦
心も亦想像以上のものであった。彼は其の当時から自動車の識見は一頭地を
抜いて、深い造詣有し教わることの甚だ少なくなかったことを今も感謝して
いる所である。…嘗て彼が米国の或る工場で研究中の時、六尺豊の巨大漢に
軽視されたとて憤然喰ってかかって巨大漢を辟易せしめたことがあった。…」
古林卯三郎は、昭和41年(1966)5月25日に「東京瓦斯電気工業の保護自
動車製造」の題目で口述したものが、昭和50年に刊行された「自動車史料
シリーズ(2)」に収録されている。
橋田 肇(計器部副部長)「毛利君を偲ぶ」
「毛利君と机を並べて自動車関係の仕事をしたのは、たしか大正13年から
三、四年だったと記憶する。お互いに三十代の若い血が燃えて居た頃だっ
た。其の頃は我が社の自動車原始時代で、B型、E型、自動車を造って居っ
たが、所謂世界的不景気の暴風が荒れまくって…注文もあまりないにもかか
わらず、毛利君は孜々として設備の改善に努力して居られた。…満州事変勃
発後の工場拡張に際し、君の不断の努力の結晶たる改善設備が反映し今日の
大自動車工場建設の基礎になった事は申すまでもない。…ごつごつしたあの
肩を叩いて、今一度語り合いたい、然し其の人は既に土に返ったのだ」
奥泉老生※54(囑託)「追憶を辿りて」
「大正八年頃の事かと記憶して居る。自分が陸軍を止めて東京に移転してか
ら二三年後の事のやうに思う。時々溜池の日本自動車株式会社の修繕工場に
出懸けて工場長の柴藤技師と会談した頃である。同室で時々見掛ける一人の
青年技師があった。始めの内は単に礼を交はすのみで別に言葉を掛ける訳で
もなかった。その内柴藤技師の紹介で毛利輝雄君であることを知った。併し
其当時は別段親しくする迄には交際が進んで居らなかった。無論其当時は柴
藤氏の指導の許で毛利君は修繕の仕事に直接従事されて居ると謂ふ自動車に
対する日浅き研究学徒の一人に外ならない時代であったと思って居ったが其
執務振りは極めて熱心で研究的であり職工の監督も真面目で仲々キビキビし
たところもあり将来大いに成すところある人だと思うていた。其内柴藤技師
が米国へ出張するようになったため竹澤とか謂う人が工場の主任となり確か
毛利君は一級技術者として竹澤氏を補佐し工場の総指導を一手に引き受けて
盛んに其手腕を奮う時代となっていたときのことである。或日工場へ遊びに
行ったところ毛利氏は自分に向かって千九百十一年式の「キャデラツク」車
の電気配線について研究された事があるかと聞かれたので一通り取調べても
見、其配線図も集めてあるから必要があれば書いて上げようと話して別れ
た。数日後に竹澤氏から一応キャデラツク車の電気部品につき取調べて貰い
たいとの言伝があったから配線図の手写したものを持って工場に出向いて其
部品を調べて見たが二三個不足して居ることが判り、取調べた結果車から取
外づした幌型「ボティー」に附けた儘大阪へ送り返したと判って電報で至急
取り寄せるやら頗る滑稽な事をやって新たに作った「リムジン」型の「ボ
ディー」に取り附ける段取りになった。尤も自分は毛利君に配線図を手渡し
て帰ったのであった。毛利君はこの配線に対しては余程悩んだものと見たが
二日二晩不眠不休の研究をして実地車体に取付を行ったようである。併しど
うしても「エンジン」の「スタート」が出来ないので色々に其配線を変えて
試験して見ても駄目であった。大概の人ならここで腰を折って誰かに助力を
乞う筈であるのにどうしても助力を乞はない沈思更に研究を重ね、自から車
の下にくぐり、運転台に飛び上がりなどして実際に配線の不備等を点検する
等あらゆる手段を盡して更に一昼夜の活動を続けたと聞き及んでいる。不幸
にしてこれも徒労に属し納入の約束日は刻々に迫って最早其翌日の朝に先方
の立会で試運転をせねばならぬまでに成っては如何なる毛利氏もこれには閉
口したと見え残念ながら竹澤氏へ援助方を申込んだのである。若しこの際納
入期日に二三日の余裕あるとしたならば更に一層の研究と其不屈の負じ魂と
によりて確かに其配線を完結し得た事と自分は其当時毛利君の絶大なる努力
と其研究熱の旺盛なるに敬意の念を禁じ得なかったものである。思うて爰
ここ

到ると毛利君が今日あるのは敢て怪しむに足らずと雖も其不撓不屈の負じ魂
が反って同君の健康を害し尚春秋に富む身を以て永逝するに到りたる原因で
あるように思惟し深く同君の死を惜しむものである」
小西晴二(自動車部設計課第1課課長)「思い出す儘に」
「毛利さんは線の太い人であった。歩き振りの様に豪傑振りは現代離れして
いた。大正九年頃だと思うが、実業練習生として渡米されるので横濱へ見送
りに行った。実業練習生制度は震災頃迄あったと思う。農商務省と云った時
代に一般から「エンヂニヤー」を募集し試験にパスした人を省の費用で海外
に派遣した。試験科目の中に、英語、会話があった。毛利さんも之れには大
分閉口されたと思う。こんな語を聞いた。耶蘇教の洗礼を受けられたかどう
かは知らぬが米人宣致師の居る教会に盛んに出入りして、外人の牧師と教義
を誦じ、会話の練達に勉められた。渡米中は之を盛に利用されたらしい。信
徒仲間のティーパーテイに招かれた時に、黒紋付の羽織袴で出かけ、あっと
云はせたとのことだ。米国の片田舎の事だから、定めし話題を賑はしたこ
とゝ思はれる。こんな具合に会話の機会を盛んに作られた。…米国の大製造
会社の社長がどう感違いしたか、君を日本の一大工業家として宴を催した。
こんな場合に、悪びれないのが毛利さんの特長だと思うが、先方を煙に巻い
て大変な御馳走になって帰られた。まもなく留学中の仲間から東洋の豪傑と
云う「ニックネーム」を贈られた。会社で盛んに活躍されたのは自動車部が
飛行機部と別れた頃だが、工場を今の計器工場の処に移した時に、会社の
隅々まで捜査して死藏された工作機を倉庫から運び出し、他工場の天井から
不要の「チャンネル」を引き外して「コンベヤー」の「レィル」として忽ち
にして新工場の形態を備えた。こんな具合だから、何時も事務上の手続き
が、追いつかなかった。先達て社報に山賊云々…とあったがこんな事が忌諱に触れて付けれたものと思う」
小西晴二は、昭和48年(1973)刊行の「自動車史料シリーズ(3)」の座談会
で毛利輝雄のことに触れている。
渡邊隆之助(自動車部設計第2 課課長)「挽歌」
この朝げ橋に置く霜著
しる
ければ病み臥す君を思ひて渡る
一たびはよしとし聞きて立かへる 春はや来よと祈

みてしものを

あめ

つち
に満てる寒波の極まりて 病み細る身の耐えずやありけむ 
供えたる藤浪花水やれど 垂れしほれつゝ術
すべ
なかりけり
經聲と天

幕く
打つ雨

音め
と寂
そう

ぞう
し つぎつぎに人おろがみゆくも
悲しみの喇叭鳴りて響きけり み枢今を家立たむとす
しとしとと外に春雨の降りければ 赤々と君は燃えにけむかも
社を思へばおのれはげみて幾日つづけ 日を夜を徹しつとめし君はも
工場の事務所に入れば今もなほ 「や」と云ひて君が寄り来るが如
TGE「ちよだ」「いすヾ」とつぎつぎに衢
ちまた
に会へば君の思ほゆ
自動車工業法案成らむとす あきらめ難く君逝きにけむ
筑紫の沖つ邊に燃ゆる不知火 君がみ魂と燃ゆる不知火
長野村俊一(購買第1 課々長)「毛利さんの思い出」
「…我々の知る限り、毛利さんは自動車で生れて自動車で死んだ様な人であ
る。大正の終り頃、其の当時の内燃機部がローン神風に夢中の時に、あの暗
い自動車組立工場で将来を夢み独り孜々と働いて居ったのは毛利さんであ
る。…実際最近は気で生きて居った様なものであった。毛利さんなき後の自
動車は淋しい」
杉野繁兼(自動車倉庫課長)「毛利さんに就て」
「…今の航空機組み立て工場の処に自動車組み立てがあった頃だった。係員
と云ったら佐藤信保君を始め川原君、吉村君それに自分の四人きりで先ず四
屯車の組立を皮切りに仕事を始めたのだが何分創業時代の事で捗々しくいか
ぬ。漸くにして完成、いざ試運転と云う時になると臍の緒切って始めて事だ
から腫物にでも触れる具合で恐るおそる最初の運転をやった、すると車が動
いたと云うので大喜び先づ乾杯と逝った様な調子であった…丁度此の頃組立
工場に皮の「ゲートル」を付け、靴と云ったら登山用底厚の当時はあまり見
慣れない奴を穿いて例の大股でのしのしと入って来る男が居た。我々は一寸
異様な面持で眺めて居た。之れが毛利君その人であった…」
田中案山子(自動車検査課長)「毛利君を悼む」
「…氏が此の病を得たのも実はL型自動車試作時代に非常に無理をし、連日
運行検査に出張なされたりして諸般の指揮監督に没頭せられた結果であると
思うのである。…現在自動車部の斯くの如く隆盛になったのは一に星子部長
の大手腕に依る事勿論であるが、工場長としての毛利君の功績も亦決して没
すべからざるものがある。今後国産自動車製造は国家的大事業であり…氏の
如き堪能の士を失うた事は誠に残念に絶えない次第…」
宇都宮實(自動車倉庫部)「終生意気の人」
「…氏が残した功績の偉大さは、終生を通じて意気の集積結晶でなければな
らぬ。この意気に就いて一端を知り得る逸話…ある日の一夕更けるを知らぬ
まで和気会談して其の中に氏の郷里福岡の地景美に及び、何気なく余生を故
山に終る哉と問いたるに、氏は忽ちかかる人生観を論難し『余は天職の為死
するまで働きて余生なく、まして家郷閑地など絶対に欲せざるが素志なり』
と持前の態度傲然たるものがあった。此の一言は実に氏が終生意気の人とな
り通し盡す資性を物語るに充分である…」
藤島 茂(自動車工場)「毛利工場長を偲びて」
「…かつて、HS型6輪車が試作された時のこと、試運転後に分解した時、
関係係員を集められ各部品を一々手に取られ詳細に亘って加工上の注意のこ
とまで御教示になった。此の時のことであったが、歯車の面の取方に御注意
を受けたので、其の後色々と形を直して御目にかけた所、非常に喜ばれ今後
はそれにし給えと即座に決められたのである。君達は品物を作るばかりでは
駄目である、出来た結果がどうであるかと云う事を知ることも必要であると
申され車の具合や各部の機能を覚える様にと時々車に試乗を許された。…」
岡村福男(実弟)「兄のこと」
「…兄はこの職業に満足し、且之が唯一のもので、何一つ外に道楽なく、別に新しく道楽を開拓する必要もなく、完全に職業と道楽とを融合させていました。…子供の無い寂しい家庭を自覚してか、自ら務めて家庭生活を明るくする様骨を折って居ました。全ての重心は家庭にあるが故に、家庭を忘却した人の成果には生彩が無いと良く話して居ました。全く良き家庭人であり生活の源泉たる家庭を培養するには如何なる努力をも惜しまなかった風です。故人となる十日位前、安藤様より自動車部草昧当時の昔話を承り、早速枕頭で本人に伝えてやりますと、何と感じたのか、多分往時を思い胸に溢するものがあったのでしょう涙に噎んで居ました。あの豪気な兄の涙を見た事は之が始めてであり且終りでした…」

20毛利輝雄への揮毫

 「追悼の書」の冒頭には、毛利輝雄のために揮毫された瓦斯電社長・松方五郎と玄洋社※ 47を率いた頭山満の書が載せられている。

松方五郎の書
 「追悼の書」を出版するにあたり、故人を追憶して揮毫されたものであろう。毛利輝雄は、会社にとり貴重で得難く模範として見習うべき人材であつたと称賛を贈っている。1 枚目の書は、「亀寶 五郎」と書き次いで「『亀寶』故毛利氏之如き誠実神技之士ハ我社之寶なり亀鑑なりき」と書き、ともにしっかりと花押が記されている。

松方五郎
松方五郎の揮毫(1)
松方五郎の揮毫(2)

頭山満※ 48の書

頭山満

 明治から昭和初期にかけて玄洋社の総帥として活躍した頭山満の揮毫で、「至誠通神 爲毛利氏 頭山満」と書かれている。「追悼の書」で星子勇などが述べているように、頭山満の薫陶を受け私淑していたのであろう。ただし、玄洋社社員名簿には毛利の名は見いだせていない。米国では始終和服袴姿で過ごした、国士然とした風貌などの記録から頷けるものがある。この揮毫の経緯や時期は不明であるが、同窓であった白石好夫が玄洋社社員であったことから、白石を通して頭山との接点ができたものと思われる。

頭山満と松方正義
 「追悼の書」に所収掲載されているこの2つの書の揮毫者である、頭山満と松方五郎の父・正義との間には、毛利の逝去から34年を遡る明治25年に起こった選挙干渉※49といわれる大事件で、1つの確執が起こっていた。この「追悼の書」は、発刊されてから当然頭山満と松方正義にも贈呈されたと考えられるが、見開き頁として配された両者の書をみてその心中を思いやると興味深いものがある。

頭山満の揮毫

玄洋社社員
 ちなみに、福岡工業学校の教師・卒業生で玄洋社社員であったものは次の
ようである。
 幾岡太郎一(1849 ~ 1929) 福岡工業武道(剣道)教師 (列伝Ⅱ/ P194)井上隆介(?~ 1950)(明治32 年建築卒)明道館員 岡部喜三郎(旧進藤)(?~?) 明治44 年採鉱卒、福岡市役所土木課長

白石好夫(後に慶雄)(1892 ~ 1936)
 明治25年(1892)9月30日福岡県筑紫郡警固村庄(現福岡市今泉)に生まれ
明治36年(1903)住吉高小学校入学、明治40年に卒業して同年に福岡工業学校機械科に入学、同45年(1912)に卒業する。この後さらに早稲田大学政治科に進み、後に福岡に帰郷する。明道館※ 50員となり、大化会員、玄洋社社員となり、昭和11年1月31日に没している。

19追悼の書「毛利輝雄氏を語る」

 毛利輝雄の葬儀が執り行われてから1 ヶ月と2週後の、昭和11年(1936)4月28日付けで「故毛利輝雄氏を語る」と題した追悼の書が刊行された。編集兼発行者は先にあげた安藤喜三、菊版80頁で巻頭の東京瓦斯電社長松方五郎、及び頭山満の揮毫に続いて毛利輝雄の遺影に続き家族の写真、葬儀の模様、学生時代から瓦斯電での活躍までの写真など11頁の写真の後に弔辞、70名の追悼の言葉が掲載されている。表紙には、毛利輝雄生前愛用のサインを連続模様にして題字は安藤喜三である。

18毛利輝雄の逝去と送葬

 昭和11年(1936)2月中旬、長らく毛利を悩ませてきた宿痾の喘息が重篤の事態となり、26日に起こったいわゆる2・26事件の余燼もまだ覚めやらぬ3月11日の早朝5時59分、瓦斯電入社以来自動車の製造にかけて效々として寧日遑なき熾烈な日々は終わりを告げ、まさに自動車に生き自動車に捧げた44歳の一期であった。

泰雲院興誉輝雄居士
 「泰雲院興誉輝雄居士」の戒名を贈られた故毛利輝雄の送葬は、逝去翌日の通夜から始まった。通夜は12日夜として一般の弔問と並行して会社関係は午後5時から設計2課に続き6課と工場の職員の弔問が行われた。告別式は、13日午後1時より挙行され毛利の後任となる工場長代理の安藤喜三を葬儀委員長として、松方五郎社長はじめ一同うちそろって改めて霊前に向かって頭(こうべ)を垂れた。3時サイレンを合図に全工場の作業が停止され、在郷軍人が吹奏する喇叭による送葬曲が流れるなか霊柩車が進んだ。このとき故人の汗の結晶となる自動車部製作の「いすゞ号」3台が各方面より供えられた花輪生花を満載して先導した。
 3月16日、大森工場内に安藤葬儀委員長名で故毛利輝雄の葬儀に際して職員が示した哀悼の意に対して「工場各位に感謝す」として次のような掲示が示された。
 「工場の柱石、吾人の愛敬思慕の的なりし工場長毛利輝雄氏の逝去に遭い、只々之が哀悼しきりにその威容を偲ぶこと切なり…目下工場は時局に基き益々奮励努力を要するの時なり。吾等、故工場長の遺徳を仰ぎつゝ新興日本に相応したる明朗溌溂の工場たらしめ以て業績の躍進を期するとともに国難克服の礎たらしむるこそ、之れ故工場長の御尊霊を慰むる最善なるものと堅く信ずるものなり…」と工場職員へ感謝と今後の協力を求めている。

星子勇の弔辞
 弔詞はまず、上司である星子勇が取締役・自動車部長自動車部総代としてまた会社を代表して「謹んで故毛利輝雄君の霊に告ぐ」を切々と声も途切れがちに捧げたのは次のようである。
 「君、我社に職を奉ずる事十有六星霜、我自動車部工場長の重責に任じ以て、我部今日の興隆を致す其の功績の洪大なる、よく筆舌の盡ところに非ず。君、資性英邁、識見深奥、其の高潔なる人格の顕現する所、積極進取の策となり、溢るる情誼の発するところ整々たる統率の妙諦を示す。部を擧げて其の人に寄託す、豈に故なししとせんや。今や其の人亡し、哀愁何んぞ堪えん。天を仰ぎ地に伏し慟哭久しうするも幽冥境を隔て温容接するに由なし、噫々悲しい哉。君、曩に欧米に学び深く斯業を極め、帰朝せらるゝや其の薀蓄を傾け社業に決掌し、沐雨櫛風※ 46、苦闘幾春秋、我部今日の隆興を来し、斯業発展に貢献する所絶大なり、今や邦家未曾有の非常時に直面し自動車工業確立の要望の聲、朝野に満ち、我部の使命愈々重きを加えんとす。噫々此時君大器を擁し卒然として逝く、痛恨馨ふるに物なし、我等一同君が素志を継承し協心戮力誓って君が理想の実現を期し、以て柳か英璽に酬ゆる所あらんとす。思ひを往時に馳せれば旧の情、惻々として身に迫り心意を盡能わず、流涕哀情を披瀝して在天の霊に捧ぐ、希くは來り亨けよ」

故毛利輝雄の祭壇
毛利輝雄の葬送の列

安藤喜三

安藤喜三

 星子に続いて、東京瓦斯電自動車工場従業員を代表して工場長代理・安藤喜三が弔詞を捧げた。
 「…君天資頴敏にして宏懐、笈を負うて遠く欧米に遊学する事数星霜、夙に自動車工業の国防に重大関係あるを察し深く感奮する所あり。身を東京瓦斯電気工業株式会社に投じて一身を国産自動車工業の発達に供し以て君国に報效せんと欲せらる。当事君が研究の目的たる自動車の技術たるや新興の技術にして其の学理応用共に尚創始の時期に在るをまぬかれず。研究の困難なる推して知るべきに…爾来十有余年或は自動車運行の実地を検し、或は製作技術の学理を講じ斯界の進展に努力せらる…」
 次に帝国在郷軍人会により瓦斯電気第三分会々長でもあった、安藤喜三の弔詞が代読された。
 「曩に帝国在郷軍人会東京瓦斯電氣工業分会創立に際し夙に内外多事多端なる国情を察知せられ軍需工業の在郷軍人分会との不可分性を唱導し以てその設立を強調同志説得に努めらる。一度其の挙の企図せらるゝや発起人として多大の御尽力を忝うす…分会設立せらるるや名誉会員の要職に就かれ…」
 最後に労働組合瓦斯電気技友会会長が捧げて、一般焼香へと葬儀は進行した。
 安藤喜三は、昭和41年(1966)6月6日に「自動車技術の開拓に挺身したガス電気自動車部」と題して毛利輝雄のことにも触れて口述を残して、「自動車史料シリーズ(2)」に掲載されている。

福陵工友会の弔詞
 福陵工友会(現福岡工業工友会)の会報「福陵新聞」(昭和11年5月17日付
け)で毛利輝雄の逝去を悼み、葬儀に際して弔詞を呈したことを告げている。

故毛利輝雄之霊土に帰る
 一連の葬祭の儀が一段落した遺族は、自動車に終始した故人の生涯にとって、最も関係深い東京と故山となる福岡の両地に墓所を定めてそれぞれに納骨をすることになった。まず3月17日、芝大門花岳院に納められ同20日に遺族近親に守られて福岡の墳墓後に帰った。

17柴藤啻一(1891 ~ 1924)

 柴藤啻一(しばどうただいち)は、明治24年(1891)2月22日福岡市下対馬小路(現博多区対馬小路)に生まれる。明治37年、福岡高等小学校を卒業、1年後の明治38年に福岡工業学校機械科に入学、同42年(1909)に卒業すると福岡工業学校と同じ明治29年に創立の大阪高等工業学校※ 41船舶機関科(現大阪大学工学部)に進んだ。
 この時期、大阪高等工業学校には柴藤の福岡工業学校機械科の1年後輩で明治43年卒業の二人の外国人留学生がいた。楊志春と毛啓寰で、いずれも清国浙江省寗寧波奉化県出身の留学生として福岡工業学校に学び、毛啓寰は大正3年(1914)に、楊志春は大正6年(1917)に機械科畢業生(修了生)として卒業している。

日本自動車入社
 大正2 年(1913)に大阪高等工業学校を卒業し日本自動車合資会社に入社。
 大正6年(1917)日本自動車工作部作業場内で柴藤の設計により外国車の部
品を用いて乗用車1台を完成、その後同社は別種の外国車の部品を用いて試
作車を1 台完成した。
 大正7年(1918)に社命により渡米し、ミシガン州のデトロイトに滞在、自
動車の製造や整備・修理法の訓練研修に励んだ。

「自動車」の出版
 柴藤は、この滞米中の大正7年(1918)5月5日発行として東京赤坂溜池の極東書院から「自動車」(636頁、11cm×18cm)を出版した。これは当時の主要な自動車雑誌の月刊「モーター」誌に第2巻5号(大正3年5月)から第5巻4 号(大正6 年4 月)まで28 回※ 42にわたり「モーター通俗講話・自動車の話」として連載で掲載されたものをまとめ、加除訂正して発刊されたものである。校正を陸軍歩兵少佐奥泉欽次郎、柴藤の上司である日本自動車株式会社専務取締役社長の石澤愛三、雑誌「モーター」主幹の山本愿太が助言と援助をしている。毛利輝雄と同様に、日本の自動車工業確立期に活躍して大正13 年5 月25日に逝去している。

雑誌「モーター」目次
(大正4 年12月号)

「自動車」自序
 柴藤は、「自動車」発刊に際して巻頭に次のような自序を書いている。
 「欧米に於ける自動車は、今や全く國民的必要品となりたり、國防の大事は素より、農、工、商の総てに渡り、之れを餘外しては、人類の行動を全うし得べからざるに至りたり。從って其敷の僥多なる實に驚くべきものあり、現に最近の統計によれば、米國現今の自動車数は、無量四百九十有餘萬臺に達し、人口二十人毎に一臺を有する状況なりと傳えらる。翻って本邦を見れば、全數漸く三千に満たず、國民の之れに注意するもの少なし、或は自動車を以て贅澤物視し、危険物視し、之れを驅除せんとする者さへある状態なり、欧米に於ては、自動車は、國民の必要品なり、然るに、本邦に於ては、之れを障害物として遇せらる。之れ果して如何なろ理由に出ずるや、原因素より一ならざるべし。さりながら其最大原因は、自動車知識の普及されざるにあるは疑うべからず。之れに於てか著者自ら揣らず、過去十年研究の結果蒐集したる材料を整理し、本書を著し、以て斯界に提供するに至りたり。
 從って本書は、其説明單に一、二の型を説明するに止めず、可成多くの自動車を彙集分類し、其代表的のものについて一般的説明を加うる方針を取りたり故を以て、讀者本書を熟讀せば、庶幾(こいねがわ)くば今日の普通自動車に接するも、これが了解に苦しむが如き事なかるべし。而して本書は曾つてモーター雑誌に連載したる自動車の話を中心としたるも、其前後を追加したるのみならず、全部を通じて大なる加除訂正を試みたれば、大に面目を一新したるべきを信ず。終りに臨み、本書の完成に當り、畏友陸軍歩兵少佐奥泉欽次郎氏は、全部の校正を担任し、其勞を取られたるのみならず、本書の編述、材料の配置に關し重大なる忠言を與へられ、日本自動車株式會社専務取締役社長石澤愛三氏、モーター雑誌圭幹山本懸太氏の両君叉本書の出版に關し多大の援助を與へられたり、記して茲に謝意を表す。大正七年四月 在米國 柴藤啻一」
 大正6年(1917)の維新後49年の時点でも、米国の自動車保有台数は490万台で、日本では2,672台となっており、その原因は自動車についての理解と知識の不足が最大の原因で、人々は未だそれが持つ大きな利便性の効用は啓かれていなかったといえる。

柴藤啻一著「自動車」(1)

「記録集」に登場
 昭和48年(1973)に刊行された「日本自動車工業史座談会記録集」に、昭和32年(1957)4月5日の第1回座談会で、「草創期の自動車工業」をテーマとして開かれている。このなかで「自動車製造の芽生え」の項で豊川順弥※ 43が柴藤について触れており、「ここで名前を出していただきたいのは、大阪高等工業を出た柴藤啻一君です。……若い技術者が自動車に入ってきたことには大きな意義があります。自動車はこの頃になってようやく軌道に乗ってきました」これに続いて日本自動車合資会社の石澤愛三も柴藤の同社への入社について触れている。

「サービス」の語は柴藤啻一から
 大正初期自動車の普及に従って、車の円滑な稼動運用には不断の点検と修理が必要であることが認識されるにつれ、この仕事を自動車販売業と合わせて行なったり、専業として事業化されるようになった。
 梁瀬長太郎が「自動車を益々発達せしめるためにはサービス、即ち修理の仕事が極めて必要なのである」※ 44と述べているが、「このサービスという言葉は大正5、6年頃日本自動車株式会社の柴藤技師長が海外より帰朝後、初めて自動車用語として使用し始めたものであって、時の大倉喜七郎男爵から「サービスとは何であるか」それを持ってくるように言いつかって柴藤さんが面食らったと言う挿話が今日残っている」と編者※ 45が注として述べている。

柴藤啻一著「自動車」(1)
柴藤啻一著「自動車」(2)

2 度の洋行
 柴藤啻一は、大正9年(1920)3月から再び社命を帯びて自動車研究の目的で欧米視察を行い同年9 月21 日帰国している。
 3月に渡米してまず、シカゴや2年前にも訪れたデトロイトなどの視察がすむと、ミルウォーキーの著名な自動自転車会社やオートバイメーカーのハーレーダビッドソン社を訪れた。
 次いで英国に向かうため4月24日午後4時、2万5千トンの旅客船アドリアティック号でハドソン河を下って自由の女神像を右舷にみて大西洋上を一路英国に向かった。
 このとき大西洋航路途上の船中で4月27日付けとして、これまでの見聞記を福岡日日新聞に「世界第一の自動車産地」と題して執筆寄稿し、大正9年6 月30日から5 回にわたって掲載された。
 これによると、当地の最新の情報として現在自動車生産台数が日産5千余台に達し、その普及は進みニューヨーク州のみでも120万台に達し、元来機械であった自動車はアメリカでは「器具」と化し(大量生産による)廉価なる自動車の創造はさらにこれを「家具」となして、遂にはアメリカは人口10人当たり1台となるまでに至っている。これは、まず英国において自転車の普及は、部品製造の分業化、寸法の標準化、組立て部門の独立などによる生産量の増大と普及が起こった。これをサイクルトレード(自転車商売)という。英国におけるサイクルトレードは、米国では自動車について起こり、アセンブリング(組立て)として発達してきた。その代表的なものがフォード自動車による生産方式である。またの部品加工における寸法公差確立、自動機械の発達が要請されている。日本においては小型の自動車の製造を目指し米国の製造方式を採用するべきと考える。自分は既にこれを実行して2台の自動車を製作した経験を持っている、と柴藤啻一は述べて、欧州各地を訪れ9月21日帰朝した。
 その後、新三菱重工業神戸造船所造機部長、新三菱重工業三原車両工場長などを歴任し、大正13 年5 月25 日逝去した。

竹場露嘉(1896 ~?)
 竹場露嘉は明治29年(1896)1月26日、愛媛県南宇和郡宇和島町鋸34に生まれる。明治43年に南宇和郡平城尋常高等小学校を終えると同郡立水産農業学校水産科に入学するが工業への道へ進むため同44年(1911)4月に第2学年修業として退学する。翌45年に福岡工業学校機械科に入学する。各学年良く勉学に励み3学年以降は生長となり優秀な成績で大正5年(1916)に卒業と同時に熊本高等工業学校機械科(現熊本大学)に、福岡工業学校の同期同科の薄金夫、吉田高穂とともに入学する。同8年に卒業後大阪の住友鋳鋼所に吉田は神戸三菱造船所にそれぞれ勤務する。竹場は、大正10年(1921)に同所在籍のまま、毛利輝雄と同様に農商務省の海外実業練習生に選ばれて渡米留学する。母校同窓会への報告によると、同12月30日横浜を出帆、船中で新年を迎えて1月8日ホノルル着、15日にサンフランシスコに到着し排日の気配を感じる。列車で大陸横断してニューヨークに到着、その後Anderson Magnesia Products Co.で職工として研修するなど2年間滞米の後1年間を欧州を巡る予定であると知らせている。その後は、大正15年神戸製鋼、昭和7年佐賀県の唐津製鋼所を経て、横浜鶴見の株式会社芝浦製作所(現芝浦メカトロニクス株式会社)に勤務している。

葛西環一(1896 ~?)
 明治29年(1896)9月4日、青森県青森市栄町に生まれる。明治36年莨町(たばこまち)尋常小学校(現橋本小学校)入学、同40年卒業して青森高等小学校(現市立浦町小学校)に入学、同42年、第2学年修業後に高等科第1学年入学、第3学年修業中に福岡在住の同郷の叔父である葛西徳一郎のもとに寄留して、明治45年(1912)福岡工業学校機械科入学、大正5年(1916)卒業、直ちに同期の中島虎雄とともに北海道室蘭の大日本製鋼所に就職するが、大正6年、新しい進路を模索のため上京する。大正8年(1919)東京梁瀬商会に入社、翌9年に梁瀬自動車株式会社に改組し開設された芝浦工場に勤務。昭和4(1929)、大阪の日本ジェネラル・モーターズ会社に勤務の後、昭和6年(1931)郷里青森に帰郷している。