14環瀛丸最後の乗船
廃藩後の藩蒸気船は、環瀛丸や蒼隼丸は物産会所(旧藩銀会所)の管轄となり、福博両市の船問屋10軒の受け持ちとして、船具などとともに売り払われた。
環瀛丸は、夜須郡(現朝倉市)甘木の豪商佐野屋・佐野弥平※ 43の所有となり、福岡橋口町(現中央区天神)の中尾伊作と営む運送会社で運用するため、長崎港で蒸汽罐(ボイラ)その他の機器を修繕のうえ明治6年(1873)6月に福岡に回漕されてきた。
城戸開内は民間船となって福岡に着いたばかりの環瀛丸の機械方を嘱託され、これが元藩御船方として務めてきた船乗りとしての最後の乗船となった。
筑前竹槍一揆
明治6年(1873)筑前福岡は6月以来の大旱魃を契機として、のちに「筑前竹槍一揆※44」と呼ばれる嘉麻郡で始まった農民一揆が勃発している。この一揆は、たちまち筑前全域へと広まり、一部は筑後や豊前地方にもおよびついには旧福岡城三の丸御殿の福岡県庁襲撃にまで発展している。
竹槍日記
この一揆の顛末は江島茂逸※ 45が宗像散人或いは青邨漁夫のペンネームで、明治30年(1897)8月1日から10月10日にまで68回にわたり「竹槍日記」として福岡日日新聞に連載され、第38回(明治30年10月10日付け)に「環瀛丸船中の顛末」として掲載されている。
数万の一揆勢は、石堂口門、西門口門より博多市内に乱入して、博多中島町の為替方小野組を乱入襲撃したが、これより早く異変を察知した手代は数箱に入れられた官金を役人の警護のもとに環瀛丸に運び込み福岡港の沖手に繫留しているところへ、6月21日となり乱徒は小舟を押したてて環瀛丸に迫ってきた。先に駆け付け乗船していた山中立木※ 46が大音あげてこれを制し乱徒は引き上げ官金は無事であった。その後環瀛丸は湾口の奈多沖に出て騒乱の収まるのを待った。
このとき、城戸開内は佐野弥平の嘱託により、船長の旧藩御船手小船頭十五石三人扶持であった元上役の川下勘七のもとに環瀛丸の機械方となったばかりであった。
13環瀛丸と2つの事件
太政官札贋造事件
明治3年(1870)春、福岡藩財政は幕末からの悪化に加えて、戊辰戦争の出兵費増大などの窮状打開のため、大参事ら藩首脳も巻き込んで、明治新政府が発行した太政官札の贋造といういわゆる「太政官札贋造事件」にが発生した。
偽造された貨、紙幣は藩船環瀛丸に積み込まれて、明治3年5月17日に福岡港を発船して江差や函館など北海の物資買付けに向かい各地で使用された。この事件が発覚して関係者は処分され藩知事黒田長知は明治4年7月に罷免のうえ閉門となった。回収された贋札は藩穀倉永倉(後福岡工業学校敷地)の正門前広場で焼却された。
12新しい行政組織と福岡区の区制
明治4年(1871)4月、戸籍編成法が公布されてこれまでの郡村制は全国的な地方制度として行政区域が再編成され、大小区画制が採られた。それらを取りまとめる役目として旧来の庄屋、名主、年寄りなどの名称は廃止され、新しく区長・戸長・保長などの職分が設けられ地方行政と戸籍の事務があわせて取り扱われるようになった。
福岡では、明治5年大小区画制を採用して旧来の筑前国は、32区の大区(後に16区)に分け、早良郡福岡は第一大区、那珂郡博多は第二大区として藩政時代の博多津中と福岡市中のいわゆる津市対立※ 41の形態を存続したが、明治9年(1876)には、筑前国は九大区となり第一、第二大区を合せて一大区としてこれを四小区に分けた。区毎に区長1名、戸長3名、小区に副戸長1名(従前の年寄)を置いたが、副戸長は後に保長となり、明治21年(1888)の「市制及び町村制」の公布により、区制から市制に切り替えられた。翌22年に市制施行に伴い、市名を「福岡」あるいは「博多」とするか激論※ 42の末に福岡市となった。
小区の保長と総代を務める
城戸開内は明治5年(1872)となった夏、城戸開内は福岡藩では2年前の8月に藩兵断髪許可が出ていたので、それを受けて頭上の髷は落とされていたか、1年前の8月の太政官断髪令で落としたか、或いは侍の意地をもって帯刀はともかく未だ頭上にあったか、いずれにしても新しい時代の風を感じたことであろう。8月から翌6年6月まで第二大区(博多)の第三小区保長として奉職する。
この第三小区に属していたのは、城戸の住居がある蔵本町の直ぐ西側一帯の行
町(ぎょうのまち)(現奈良屋町)、浜小路(はましょうじ)(現奈良屋町)、西方寺前町(現奈良屋町及び古門戸町)、古門戸町(こもんどちょう)、妙楽寺町(現古門戸町)、妙楽寺新町(現古門戸町)6つの町であった。
11福岡藩蒸気船の動静
城戸開内が、御船手に出仕を始めて以降の福岡藩蒸気船の動向と関係政情などを、「黒田家譜」を中心に年表として大鵬丸・環瀛丸・蒼隼丸の動静を追い、周辺で進行していたであろう政情などを城戸が見聞した状況として述べる。
嘉永4 年(1851 / 7歳)
この年、7 歳となった城戸開内は福岡藩船手組に出仕して勤務をはじめる。
嘉永6 年(1853 / 9歳)
福岡藩が長崎警備の当番年で7月19日、ロシア船4隻来航の報がはいった。陸路部隊、海路部隊の大出動となった。海上部隊は一番手立・御座船立(藩主の船隊)二番手立の順で編成され、藩の船手はもとより浦の水夫も触出されて総勢二千人ともなり、荒戸の港を出帆している。この時の話に出動した船手や水夫が船中で寝ていると寝入ったところで手足がしびれて動けなくなり大声を上げて叫ぶなどが、夜な夜な起こり物の怪の仕業であろうと噂になり藩も捨てておけず、処々の神社へ福岡藩長崎警備隊の厄除祈願と箱崎八幡宮に2千名分の「お守」を受けて急送してようやくおさまったという、城戸は子供のころの話として耳にしたであろうか。
安政5 年(1858 / 14歳)
10月18日、長崎海軍伝習所から蒸気船咸臨丸※ 28と朝陽丸の幕艦2隻が、練習航海の途上福岡に寄港した。藩主長薄は、これを歓迎して幕府目付木村図書守、勝麟太郎(海舟)らとオランダ人教官一行を箱崎の別荘にて接見饗応し、またこれを奇貨として藩の船方に蒸気船運用航海術の見聞をさせている。当然のごとく城戸も大いなる興味のうちに知見を広めたであろう。2隻の幕艦は同月22 日に板錨発艦した。
文久2 年(1862 / 18歳)
福岡藩も攘夷に備え 船奉行である中船頭の松本五郎兵衛、磯辺弥七郎等を機関方や測量方等に充てるべく長崎へ派遣して操船術その他の技術を学ばせている。
藩は蒸気船、環瀛丸及び蒼隼丸の二隻を購入しこれで藩蒸気船は三隻となった。
後に大鵬丸、環瀛丸両船は戊辰の役に際して奥羽の軍旅に係り朝廷の御用船となり、縷々奥羽北越へ航海し運輸で活躍することになる。
文久3 年(1863 / 19歳)
長崎警備の当番年で警備強化の大動員令が出たので、藩内の浦々からの出役も多く、大鵬丸は兵員・武器・荷物を搭載して3月25日出航した。この年4月から福岡須崎浜や荒戸に新台場の構築が開始され、藩の大身から足軽まで家中総出で作業にあたり、福博両市中の富商はもとより郡浦のものも相応の奉仕作業に出張った。4月7日、須崎台場に24、5門、6月20に荒戸台場(波奈)には15門の大砲が据えられた。台場は若松や名古屋崎※ 29にも構築予定となり、5月27日藩蒸気船で石火矢(大砲)・玉薬を積み込んで搬送した。6月博多港へ異国船の侵入防御案を藩家中に募り、長い筏を作って志賀島と残島の間を閉め切る案が採用されて6 ヶ月かかゝて大筏が作られている。
12月、第14代将軍家茂上洛に伴い幕艦・翔鶴丸を旗艦として諸藩の連合艦隊が編成され、大鵬丸は同月28日大阪に向け出帆する。
元治元年(1864 / 20歳)
1月8日、 大阪天保湾に集結した幕府側艦船は、幕府の翔鶴丸(御座船)他4隻はじめ越前、薩摩、佐賀、加賀、南部、雲州の各船で福岡藩は大鵬丸が着阪投錨した。
慶応元年(1865 / 21歳)
10月25日、福岡藩家老加藤司書ら処断される(乙丑の獄)。
11月13日、環瀛丸及び蒼隼丸福岡港に到着する。
慶応2 年(1866 / 22歳)
3月23日、 幕府目付一行が幕府蒸気船・順動丸で、大宰府に転座している
五卿の江戸移送交渉のため博多港に投錨、交渉首尾ならず9月
6日福岡発船帰阪する。
8月20 日、 将軍家茂が大阪城で薨去する。
9月、城戸開内は蒸気船乗に転任する。
10月25日、 藩主長溥に代わりて世子慶賛(よしすけ)は、櫛橋内膳、久野将監を従い大鵬丸で福岡港発艦上京。
11月1日、着京、同3日世子慶賛は将軍慶喜に謁見。
12月6日、帰城。
12月20日、 午後五時頃、英國東洋艦隊司令官ジョージ・キング※ 30副提督坐乗の旗艦プリンセス・ロイヤル号以下四隻※ 31が長崎港より博多湾に来航投錨した。福岡藩は荒戸及び洲崎の両砲台より祝砲十九発で歓迎し、英艦はこれに答砲した。21日、藩主長薄と世子長知は、大鵬丸に乗り英艦を表敬し副提督と面談する。22日、副提督及士官三十余名が博多市小路浜より上陸し、藩主父子及秋月藩主は一行を箱崎別荘に迎えて饗応した。23日、藩主父子は副提督一行を残島(能古島)での遊猟に誘い、一般衆庶へ各艦の縦覧を許した。24日、藩主は再度艦隊を訪れる。25日、副提督は陸戦隊を率い、箱崎海濱に於て、分列・銃槍・方陣・発砲等の操練を公開し、長溥は一般士衆にもこれを観覧させ、併て英艦隊一行を箱崎の別荘で饗応した。26日、英艦隊は抜錨して防州三田尻に向けて出帆した。
慶応3 年(1867 / 23歳)
2月10日、 世子慶賛は藩兵を率いて環瀛丸で上京。17日着京、福岡藩士松下直美※ 32一行を乗せた環瀛丸は、4月3日若松港発船5日大阪着船、15日浦賀着船し一行上陸して、松下直美は渡米準備にかかっている。このときの環瀛丸の乗組み士官は、船将・松本五郎兵衛(中船頭)、上杉作右衛門(小船頭)ら7名の小船頭その他であった。
10 月14 日、 大政奉還奏上。15 日勅許、10 万石以上の諸侯に上京の命下る。環瀛丸・大鵬丸に同乗して上京、24日大阪着。24日、京都聞役(情報官)帰藩のため京を発ち大阪より蒼隼丸で福岡着船。
12月22日、 五卿復官帰洛の命を受けて一行は福岡及び薩摩両藩の艦に搭乗帰洛する。福岡藩は大阪までこれを護衛した。
慶応4 年・明治元年(1868 / 24 歳)
正月3日、 鳥羽・伏見の戦い勃発、朝廷は諸藩に国力に応じて相当の出兵を
命じた。同月12日長溥の代理として久野将監が朝議参列のため蒼隼丸にて福岡港を発し上洛する。着阪するもそれまで福岡藩は、佐幕を奉じてきた経緯もあり上陸できず、14日夜空しく折返し17日に福岡港に着船帰藩する。28日、福岡藩は、家中はもとより郡々の大工・木挽にいたるまで出役となり、藩中老を隊長として一番隊は環瀛丸で、二番隊は2月1日に蒸気船蒼隼丸で福岡港発艦、4 日着阪6 日に着京する。29日、郡左近、蒼隼丸で発艦。
2月4日、 太政官代より、藩の聞役が呼出され藩蒸気船・環瀛丸を征討都督府の御用船として差出すよう命ぜられる。また8日には軍夫として農民・木挽26人を蒸気船で運んでいる。家老立花左衛門※ 33は、世子長知(慶賛)上京の先勢(先発)として大鵬丸で福岡港を発船上京する。10日、藩主名代として世子長知は大鵬丸で三百の藩兵を率いて発艦、12日兵庫港着に次いで17日着京。このとき城戸開内が乗船勤務しその働きにより賞金五十疋を授与される。19日、環瀛丸は御親征(新政府)御用のため兵庫港に停泊していたが、太政官の命により土州高知表まで往復回漕した。24日、小川専左衛門率いる後勢(後発)発艦。
3 月4 日、 中老齋藤忠兵衛、藩兵を率いて福岡発艦。8 日、太政官代の達しにより御用船となっていた環瀛丸を藩用のため拝借を願い出て許可を得ていたが叶わず、奥羽鎮撫使の御用船となり、福岡藩兵を搭載して3月11日に奥羽塩釜港へ出向する。天皇大阪行幸のため、海軍天覧のため着阪した諸藩の軍艦並びに蒸気船は、天覧が済むまで天保山沖へ停泊した。19日、中老立花吉右衛門藩兵を率いて発艦、また小川民部は大鵬丸で元家老久野将監らの罪※ 34を哀訴のため発艦上京する。
4 月2 日、 黒田美作は、緊急の藩命を帯びて福岡港を発船。7 日着京、藩論が佐幕から尊王となり保守佐幕派であった3人の家老※ 35切腹となり、その首級は朝廷の首実検のため中老の郡左近が護衛して大鵬丸で運ばれた。閏4月10 日発京、12日福岡帰船。
4月20日、 環瀛丸は、太政官軍務局御用となり、薩長両藩の弾薬を北越富山への運搬に従事した。
4月10日(閏)、 世子長知は、発京して大阪より大鵬丸に乗艦、同14日に福岡港着船する。
5月3日、 奥羽列藩同盟、続いて奥羽越列藩同盟なる。25日、幕府より各藩所持の軍艦、蒸気船の船名などの届出の達しにより、蒸気船左之通※ 36として届けている。
大鵬丸 長三十壱間(56.42m) 肩巾二丈八尺四寸(8.61m) 馬力二百八十
環瀛丸 長三十六間(65.52m) 肩巾二丈六尺(7.88m) 馬力百二十
蒼隼丸 長二十二間(40.04m) 肩巾二丈二尺(6.67m)
6月15日、藩主の乗艦大鵬丸は、御用船となり北越へ航海に出る。
8月17日、 長崎知府事澤権左衛門左よりの辞令により、奥羽軍の援兵として福岡藩隊長飯田孫左衛門は337名の兵を率いて環瀛丸に搭乗し出羽秋田へ出兵する。
版籍奉還につづいて、7月に官制の改革が行われ今までの西洋式を廃止して古式に則り、民部、大蔵、宮内、刑部、兵部、外部、太政官等が定められる。福岡藩の水軍の改編が実施されて、御座船(藩主乗船)香椎丸など10隻を残して、他の船は帆綱や碇をつけて処分された。今後は江戸、大阪、長崎御用は蒸気船が務めることになって公用は蒸気船の時代となった。
9月8日、 明治と改元、鳥羽・伏見の戦いに続く戊辰戦争への出兵始まる。出征の軍旅1月26日より陸続として福岡港から発艦、2月1日までに全て着阪する。
10月4日、 藩主長薄は福岡港発艦※ 37、6日大阪着艦して上京する。15日、飛準丸は筑前藩に預け切りの予定であったが政府鎮守府所属とする達しあり。16日、薩摩藩所有の御用船祥瑞丸を借用して上京すべき残存兵を搬送のため福岡発港、22日着阪。
11月16日、 藩主長薄11月2日に発病のため、世子長知これに替わるべく福岡発艦して上京、22日着京して代理を務む。26日帰福のため発京、12月3日帰藩する。
12月1日、 藩主長薄帰藩のため大鵬丸で大阪発艦、同3日福岡港着碇帰城する。
城戸門内は、乗船勤務の働きに対して藩主長薄より金十二両の報奨を受けている。
明治2 年(1869/25歳)
2月5日、 黒田長薄より藩主を襲封し第12代藩主となった長知は、2月13日発京して帰藩する。
4月4日、 長知皇居参内のため環瀛丸で福岡港発艦、13日品川着艦して14日に参内する。20日、蒼隼丸藩用にて品川に着船後、御用船となり函館へ出張航海命ぜらる。
6 月17 日、 版籍奉還の勅許、長知は初代の知藩事となる。
7 月12日、長知は京を出て大阪を発艦して15 日福岡着、知藩事に着任。
8 月18日、兵部省より大鵬丸・環瀛丸を御用船とする旨令達が出る。
10月15日、 福岡藩一時預かりの飛準丸は、品川へ回漕の命があり、翌明治3年1月14日に兵部省に返上された。「福岡藩 飛準丸之儀、其藩え御預申付置候處、至急御用有之候條、早々品海え差廻可申候事 十月十五日 兵部省」の達しが出る。
明治3 年(1870/26歳)
2月、 城戸開内は、環瀛丸乗組みとして東京より福岡へ帰港途上中に乗組頭取に任ぜられる。
7 月、 福岡藩の太政官札偽造※ 38(贋札事件)発覚する。
8月4日、 贋札事件の弁明のため藩士の哀訴状に大参事も連署して大鵬丸で福岡港を発し上京する。この帰途に志州鳥羽近海で暗礁に触れて沈没する。
12 月28 日、 贋札事件の顛末を大参事矢野安雄は蒼隼丸で上京して報告する。
明治4年(1871/27歳)
5月4日、 藩知事黒田長知は新政府の呼び出しにより出艦上京、22日品川着艦。
7 月10 日、 昧爽(まいそう)をついて1隻の軍艦が博多沖に投錨、新知事・有栖川宮熾仁(たるひと)親王着任のため坐上来福、艦上より箱崎潟の松林が濃烟淡霧の中に、漂渺たる絶景を眺めて一首を詠んだ。
箱崎に着艦の折しも夜のあけわたりければ
箱崎や明るまにまに漕舟の まき絵に見ゆる松のむら立 熾仁
7月11日、 知事有栖川宮親王が福岡藩兵の解隊を下命する。14日、廃藩置県の詔勅、18日、致仕隠居して摯成となった旧藩主長溥は家族とともに城内から浜の町の黒田播磨(一雄)の屋敷に移り、家財道具は藩の穀倉永倉※ 39に移された。
8月23 日※ 40、 黒田長溥一家は環瀛丸に乗船ののち解纜して福岡を離れ東京に向かった。
前年の明治3年2月に、環瀛丸乗頭取となっていた城戸開内は旧藩主が領地を離れる長途の船路を共にしたことであろう。
明治5 年(1872/28歳)
8 月、 城戸開内は博多第三小区保長となり新政府の地方吏員として奉職する。明治6 年(1873/29歳)
6月、保長を辞職した明治6年6月20日に、民間船となり福岡に回漕されてきたばかりの環瀛丸の機械方乗組を嘱託されて乗船することになる。
明治8 年(1875/31歳)
8月3日、城戸開内は博多第三小区総代となる。
明治10 年(1877/33歳)
3月、博多第三小区総代辞職する。
6月、西南戦役中都城に於いて輜重部より金五十銭授与される。
10太政官飛準丸機械方士官となる
明治元年(1868)9月6日、蒸気船飛準丸の機械方士官を命じられる。この船は南部盛岡藩所有の蒸気船であったが、太政官により新政府の軍用輸送船として借り上げ後に買い取られ福岡藩へお預けとなった。
機械方士官の任務は、船の推進動力となる蒸汽罐や蒸気機関の運転運用を担当するものである。明治元年(1868)12月、黒田長薄より勤務精励につき金十二両下賜されている。
飛準丸
この飛準丸については、本田敏雄の二編の論考※ 22に来歴等が詳細に述べられている。これによると、船籍:運送船(貨物船)、噸数:200噸、馬力:60または70馬力、長さ:110尺(33.33m)、幅:24 尺(7.3m)、深さ:18 尺4寸(5.6m)、代金:2万1 千両。
この船は、慶応元年(1865)から函館港に停泊していた蒸気船「PEMBROKE」号で、明治元年(1868)2月に南部盛岡藩が当時イギリスやフランスの代理領事も務めていたリンゼー商会のデンマーク人デュース(J.H.Duus)から購入された船であった。
「飛準丸(飛隼丸)」と命名されて、藩御用の諸物資や人員の輸送に供せられ
た。しかし明治元年5月4日、大阪で武器弾薬の入手にあたり、その代価に充てる国産の南部銅を搬送するため函館港を出帆、途上同月11日に浦賀に入港投錨するが、新政府軍の浦賀奉行からは上陸の許可※ 23が下りなかった。この時、港内には仙台、佐賀、津軽の各藩の蒸気船に交じって福岡藩の大鵬丸も停泊していた。
停泊2週間後の5月26日、南部藩士官や同乗の御用達を除きイギリス人船長・航海士・水主及び積載荷などは官軍に召上げ※ 24られ軍務官(後兵部省)所管※ 25となり福岡藩にお預けとなった。後に、飛準丸は明治4年(1871)7月に、兵部省により他の飛龍丸、行速丸とともに新たに購入する東京丸の代価の一部に充てられている。
福岡藩預飛準丸乗組士官格
明治2年(1869)、城戸開内は飛準丸が福岡藩へお預かりに付き同船乗組士官格を申し付けられ、戊辰戦争で陸兵輸送に従事する。
飛準丸で初代長崎知府事※ 26を送る
明治元年(1868)1月14日に新政府は、幕府直轄地の長崎を没収する旨の布達により、翌15日最後の長崎奉行となった伊豆守河津祐邦が、奉行所を脱出し船で江戸へ引き揚げる。1月16日、旧長崎奉行西役所は、長崎会議所と改められ各藩の合議制により治安維持がなされる。1月28日、澤権左衛門佐(ごんざえもんのすけ)宣嘉が九州鎮撫使兼外国事務総督に任命され、2月15日長崎に上陸。2月16日長崎会議所の廃止に次いで、九州鎮撫長崎総督府が設置される。5月4日長崎裁判所が「長崎府」となり、九州鎮撫長崎総督府が廃止され、明治2年(1869)澤宣嘉は初代知府事(後府知事)に就任する。
一月後の3月15日、澤は政府参与に命ぜられ上京のため4月11日に、大阪に向けて長崎を出港した。このとき飛準丸には、城戸開内が士官格として乗組んでおり、期せずしてか大きな歴史の転換に立ち会ったことになる。この時の精勤に対して賞金五百疋を下されている。
澤宣嘉(さわのぶよし)(1836 ~ 1873)
天保6年(1835)権中納言姉小路公遂の五男として生まれる。文久3年(1863年)政変により朝廷から追放されていわゆる「七卿落ち※ 27」と云われる都落をする。王政復古後は、参与、九州鎮撫使兼外国事務総督、長崎府知事などの要職を務め、明治2年(1869)に外国官知事から外務卿になり、外交に携わりロシア公使として着任直前に死去した。
9大鵬丸乗組
城戸開内が最初に乗組んだ蒸気船は、判然としないが、蒸気船大鵬丸の乗船勤務の精励により明治元年(1868)2月、前年に大政奉還のあと旧福岡藩主黒田長溥より、その勤めを賞してであろう金百五十疋※ 20下賜されている。
大鵬丸は、福岡藩として初めてアメリカから購入された蒸気船で、後に環瀛丸とともに奥羽戦争に応じて朝廷の御用船として度々奥羽北越へ航海して藩兵や武器など諸物資の輸送に活躍することになる。この時期の諸藩は、政情の変化に対応するため海防意識が高まり、また人員物資の往来の増加にともない蒸気船を備える藩も増え、明治維新までにおよそ80隻※ 21の蒸気船が輸入されている。