8福岡藩の洋式船
大鵬丸※ 14
木製蒸気外輪船※15 安政2年(1855)(嘉永6年とも)アメリカ・ニューヨークで建造されたコロンビア号(Colombia)で、文久2年9月長崎港で購入され、藩主が主に乗船する御座船となる。
明治2年(1869)5月23日付けの新政府軍務官の蒸気船についての届け出指図に対して、「西洋式蒸気舩章其外書付※ 16」として次のように届けている。「黒田下野守長知公手舩、原名:コロンビヤ、和名:大鵬丸、木製、長:三十一間四尺二寸(57.63m)、巾:四間四尺二寸(8.55m)、水入深サ:二間(3.64m)、荷積高:七百七拾七噸但機關共、穡(マスト)二本、煙出(煙突)一本、一時七里※ 17、昼夜所費石炭凡四萬斤、舩中所在石炭囲所二十五萬斤入、右西洋紀元千八百五十三年亜墨利加國製造、文久二年戌九月於長崎港買入 以上」
購入されたこの船は、文久2年10月25日朝六ツ半長崎出港、同日晩四時に福岡港に着いた。この船は後明治3年(1870)に、志州鳥羽(現三重県鳥羽市)近海で暗礁に触れて沈没している。
蒼隼丸※ 18
鉄製蒸気外輪船で万延元年(1860)イギリスで建造された皇帝号(Emperor、アイルシホルラス号、アイルシールラス号とも)文久2年(1862)
長崎で購求されたもので、同じく軍務官への届には、
「原名: ヱンヒコール、和名: 蒼隼丸、鐵製、長二拾壱間五尺九寸(40.0m)、巾三間五尺七寸(7.2m)、水入深サ:壱間二尺五寸(2.58m)、荷積高二百七八噸、穡二本(2本マスト)、煙出(煙突)一本、一時五里、昼夜所費石炭凡二萬三千斤(13.8t)、舩中所在石炭囲所八萬斤入(48t)、右西洋紀元千八百六十年英國製造 以上」
戊辰戦争の際に御用船として兵員武器食料の輸送に従事し、明治7年(1874)宮城県沖で座礁沈没する。
環瀛(かんえい)丸
鉄製蒸気内輪船で文久2年(1862)イギリス・バーケンヘッド(Birkenhead)のフスコカライト社で建造されたエルギン号(Elgin、ウエンギル号とも)で、文久2年(1862)10月長崎で購入され、慶応元年(1865)11月13日蒼隼丸とともに福岡に到着している。
その諸元は、3本マスト、煙出(煙突)1 本、454噸(522.8 噸、554とも)、120 馬力、幅4 間1 尺3 寸(7.6m)、4 間2 尺3 寸(8m)とも、長さ34 間4 尺6 寸(63m)、36間3 尺(66m)とも。
戊辰戦争で明治政府の借り上げ船として大阪と奥羽・越後の間を兵員弾薬を搭載して輸送に従事して官軍勝利に貢献している。城戸開内は、明治3年から乗務し、さらにまた同6年には商人所有船となった環瀛丸に機械方として乗務して事件に遭遇する。
洋式帆船・日華丸
木製帆船448噸、安政4年(1857)アメリカ・ニューヨークで建造された長さ25間(45m)の貨物船、シ・エ・チルトン号で、城戸が御船手に出仕して10年目の文久元年(1861)9月長崎で購入され10月朔日荒戸に回航されたもので、この船は後に日華丸と命名され藩の輸送に活躍するも文久3年(1863)正月28 日、紀州大島沖で沈没※ 19した。
7蒸気船乗りとなる
嘉永4年(1851)に舟手組に出仕以来、22歳となった慶応2年(1866)に城戸開内は、蒸気船乗りに出仕替えとなった。
この時期の福岡藩所有の洋式船は、木製帆船1隻と蒸気船の2隻で、和式の手漕船や帆船の時代から蒸気船への転換期であり、純帆船に勝るその有用性や用向きは広まっていた。さらに1隻の導入が図られようとしていこの時、藩最初の蒸気船に乗込む当面の士官や乗組員の養成が喫緊に求められる時期であった。
城戸が蒸気船乗りとなった年の暮れ12月20日、イギリス艦隊の4隻の蒸気船が長崎港より博多湾に来航して投錨停泊した。
このような時期に、蒸気船乗りとなったばかりの城戸開内は、大いなる興味を持って一部始終を漏らすことなく見聞き眺め回し、とりわけ蒸気機関とその運転に特段の関心を示したことであろうことは、後に蒸気機械方となったことからうかがえる。
この時期の、福岡藩所有の洋式船舶は次の3隻の蒸気船と1隻の帆船であった。
6長崎海軍伝習所
安政2年(1855)10月22日、幕府海軍の養成を目的として長崎海軍伝習所の開所式を受けて本格的な伝習が始まり、オランダから派遣されたペルス・ライケン※12による第一次教育班と安政3年(1856)年9月からカッテンディーケの第二次教育班により伝習が行われた。これには、幕府から矢田堀景蔵、勝麟太郎(海舟)はじめ39名、幕府伝習生以外に諸藩の伝習生の受け入れも行われ、福岡藩38名、鹿児島藩25 名、萩藩15 名、佐賀藩48 名※ 13、熊本藩6名など計152 名であった。
5幕末の蒸気船
日本人が前近代から近代にかけて、外国特に西洋から受けた科学技術の洗礼は、ポルトガル船がもたらした鉄砲と嘉永6年(1853)のペリー米艦隊の来航であった。これらは、その後の日本の社会構造にまで及ぼすほどの影響を与え、それのみにとどまらず開国して近代工業立国への道標を指し示すことになった。
幕府はペリーの来航を受けて、異国船を外冦としてとらえこれに対応する策を諸藩に徴し、直ちに大船建造の禁※ 11を解いた。また具体的海防策の表れとして近代的な海軍の必要性を悟り、嘉永7年(1854)11月11日にオランダに蒸気船2隻、咸臨丸と朝陽丸の建造依頼を決定している。諸藩もまた海防警備の意識をたかめ、蒸気船を購入してこれに備えた。幕府をはじめ幕末に蒸気船を所有していた藩は19藩あり、幕府の軍艦7隻、輸送船18隻の他、福岡藩3隻はじめに隣接する佐賀藩5隻、久留米藩3隻、小倉藩1隻であった。
4日本の開国
城戸が10歳となる、嘉永6年(1853)7月8日(旧暦6月3日)に、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー率いる2隻の蒸気軍艦と2隻の帆走艦計4隻の軍艦が浦賀に来航し、寛永16年(1639)以来続いてきた鎖国の終焉と開国の胎動が始まった。同年の7月18日に、長崎港にロシア極東司令長官プチャーチンも同じく4隻の軍艦で来航した。
幕府直轄地である長崎港の警備は幕府から課せられた軍役として、福岡藩と佐賀藩が隔年交代で、長崎奉行の下に長崎御番あるいは長崎勤番として港の警備に当たってきた。
オランダ、イギリス、ロシア、フランス、アメリカの艦船が日本近海に来航して長崎はじめ各地の沿岸を頻繁に窺い、これに対して幕府はもとより沿岸を持つ諸藩は海防のため艦艇の侵入を阻止迎撃する大砲を鋳造製作し、これを設置する台場の構築や海上での応戦や兵や物資輸送のための艦艇の整備に努めた。
安政2年(1855)幕府は各藩に海防沿岸防備のために、寺の梵鐘を鋳潰して大砲を鋳造せよと命じているが、福岡藩でも家中や藩内の郡町浦へ銅器など銅地金の献納を命じ、文久3年(1863)に福岡城下の荒戸波奈、洲崎に両台場及び西戸崎、志賀島、残島などに砲堡を築造した。ちなみに洲崎台場の石垣は、その一部が現在も県立美術館敷地の北側に残っている。
またこのような金属回収の事態は、後世昭和となり大東亜戦争時においても、金属類の供出令※ 10が各家庭にいたるまで達せられたが、この時に大正5年(1916)に設置されていた福岡工業学校正門の鉄骨ガーダーで作られたアーチ門も昭和16年(1941)に供出されている。
3船手組
福岡藩の軍団組織として編成された家臣団は、備(そなえ)と組で構成されていた。
備は、中老を筆頭に大身家臣が禄高に応じて編成し、それ以外の家臣団は組に編成され大組(おおくみ)、馬廻組、城代組などの士分の他に足軽などによる鉄砲組、船組(船手)などがある。
万延元年(1860)の家中分限帳によると、船組は船手頭の松本主殿の知行601石を筆頭に船頭、中船頭(7人)、小船頭(42人)、無礼船頭(16人)、梶取(119人)、加子(586人)の二人扶持四石まで773人であった。これらの人員を、2組から4組に分けて組ごとに小頭をおいた。船手の本拠即ち軍港は、荒戸の波奈(はな)(福岡港)※ 5に置かれ、蒸気船が採用される直前の嘉永期の福岡藩船数は、御座船(藩主のお召船)は住吉丸(72挺立)はじめ感應丸(60挺立)、香椎丸(60挺立)の3隻、御座船漕船(46挺立)常安丸、常風丸の2隻、御通船は長寿丸、不老丸(38挺立)、多幸丸はじめ6隻の56挺立、千手丸はじめ7隻の50挺立、他に46挺立から30挺立の船23隻など大小140隻に29隻の荷船の合わせて169隻※ 6という陣容であった※ 7。これらの軍船や荷船を操船運航する船手は、波奈を中心に洲崎※ 8近辺に住居し、城戸が住んだ蔵本町は洲崎の直ぐ東側に位置していた。
筑前福岡領内では、船頭、加子の名目があり士官無礼の区別はあったが、他領他国に出ると総べて船頭と称して苗字を用いた。
船手の居地
「福岡藩の船手※ 9」によれば、大正11年(1922)に当時の関係者を訪ねると、今や船手組について知る存命者は殆ど居ず、書き留めたものも失われていると述べている。
船乗は福岡城下の者のみにては不足で、須崎に受所がありそれぞれの浦や島から舟子を集めて乗り込ませたという。また船手の居地は、荒津山(現中央区西公園)の麓西南の塀ノ内(現中央区西公園7-9)と東北の波奈(現中央区西公園1-10)と須崎、蔵本浜が主で、遠賀郡若松(現北九州若松区)に小船頭二家と加古数人が世襲で居住していた。
図に示す地図は、明治20年(1887)の福岡市図の当該部分で幕末維新の姿が良く分かる、城戸開内が慣れ親しんだ福岡港の様子やその南側の海岸に穀倉と記入されているのが福岡工業学校となるところであり、前述の「ヘイノウチ」、「ハナ」の記入も見える。