2生い立ち

卒業制作品を前に教師と生徒(明治36 年3月)

城戸開内は、弘化元年(1844)9月博多蔵本町(現博多区奈良屋町、綱場町)に生まれる。7歳となった嘉永4年(1851)に福岡藩船手組に出仕して勤めを始める。このときの藩主は第10代藩主黒田齋清(なりきよ)から天保5 年(1834)12 月に襲封して11 代藩主となった長溥(ながひろ)であった。

福岡工業学校帽章

1卒業記念写真

城戸 開内

 冒頭の写真は、明治36年(1903)3月に撮られた福岡工業学校機械科の卒業記念写真に写っている城戸開内である。城戸は福岡工業学校勤務となるまでは、嘉永4年(1851)より福岡藩船手組に出仕して後には藩蒸気船・大鵬丸乗り組みとなり幕末から維新にかけて活躍している。この写真は、明治36年3月の卒業直前に撮られたもので、機械科卒業生21名と杉本源吾初代校長はじめ10名の教師とともに卒業製作品である竪型蒸気機関と石油発動機を前にして機械科工手として勤務しているときのものである。

 前列右から二人目の城戸開内は、石油発動機の大きなフライホイールを前にして、「職員服務規律・第七章」により教師も生徒と同じように黒色絨地の海軍型の帽子に「桜折枝ニ工ノ字」※ 3の徽章を付けた制帽を被っている。

 しかしその被り方は少し左斜かいに帽子を戴いているが、残されている数枚の写真では、いずれもきちんと目深に被っているというよりは、やや傾かしげているか阿弥陀被りのようにただ頭に載せているという様子である。明治4年(1871)に太政官より発せられた散髪脱刀令※ 4により、髪型が自由になるまでの27年間は髷姿であったであろうことから、心情的・感覚的に西洋の帽子を戴くことに拘りと、かつての侍としての矜持からくるのかもしれない。この時55歳となる城戸のその容貌から受けるものは、もはや侍としての鋭さより、ひとりの好々爺然とした面影である。

5中学校時代

静岡中学校と静岡縣尋常中学校

 明治17年(1884)に駿河国静岡追手町※ 11(現静岡市葵区)にあった、明治11年(1878)に静岡師範学校内に開設された中学課を始まりとする県立静岡中学校に入学する。 当時の入学要件は、小学校中等科卒業以上であれば入学試験は課せられておらず、また初等科3 年の義務以上の就学者はまだ少なかった。

静岡縣尋常中学校
静岡県尋常中学校寄宿舎同窓(前列右から3 番目が藤川勝丸)

 2年生となった同19年に県立沼津中学校と、県立浜松中学校の三校が統合され静岡尋常中学校となった。その後静岡中学校は、静岡市の中心の安倍郡西草深町(現葵区)に新築移転して、翌20年に静岡縣尋常中学校(現静岡県立静岡高等学校)と改称されている。

 遠隔地からの生徒のための寄宿舎が、明治19年12月に設けられている。

 在学中の明治21年(1888)11月、初めて遠州相良地方へ6日間の修学旅行が行われた。このころ、学校にはアメリカ人一名の雇教師がいたが、さらに一名アメリカ人を増聘して外国語授業を充実させた。卒業を間近にひかえた1月、父春龍が尋常師範学校と兼務で静岡尋常中学校で数学を教えるようになった。

一等賞の書籍

一等賞で授与された書籍(静
中静高同窓会所蔵)

 5年生となって5月の大運動会で、障害物競争に出場した。一等賞を得て、「Waren Hestings※ 12:An Essey by T,Babington Macaulay」(明治18年、東京六合館翻刻出版)の書籍を授与されている。この表紙扉には「一等賞 静岡縣尋常中学校」、裏中扉には「明治廿一年五月二十七日静岡縣尋常中学校生徒春季大運動会アリ静岡旧城内体操場ニテ施行ス 之ノトキ競争第二十五回目障害物競争ニ於テ第一着ヲ得依テ賞一等トシテ之ノ書及ビフレデリックノ傳ヲ授与サル 藤川勝丸」と自筆の書込みがある。

郷里の母校へ

 この資料はいったん藤川文庫に収められたが、母校となる静岡高等学校に収蔵されるのが最も意味あるものと考え、外観や内容など必要なものを記録して他の2点の資料※ 13とともに、先方の受入れの意向を確かめ、藤川とともに郷里を離れ福岡に伝わったこれらの本は、112年目となる平成14年(2002)に、はるばる静岡に戻っていった。

その他の資料

「画學帖」表紙

 その他に、中学在学中に作成した講義録や「画學帖」と記した絵画練習帳が残っているが、これ等からはなかなか鋭い観察眼を持っていることがうかがえ、茶碗などの身近なものから花鳥動物のスケッチを残している。図画の師がいたかどうか分からないが、その繊細な筆致から興味を以って事物を観察し造形の訓練をしたようである。

「農学筆記」犂の図

また中学時代のノート数冊が残されているが、講義中筆記したものを浄書し挿絵も写して縦15cm×横11.7cmの小型の綴じ本としている。そのうち「尋常中学 物理・化学・農業」の1冊は、農学士・潮田辰一(農業略説・化学筆記)、理学士・平田義烈(物理志記)、理学士・秋山保(農学筆記)の三教諭の講義録である。

 尋常中学校の修業年限は、5年で学科の規定のなかで第二外国語と農業については何れかを選択するとあり、静岡県尋常中学校は農業が採られ第4、5学年で履修し農場※ 14も所有していた。農具の犂(すき)のスケッチと説明文であるが、その図の緻密さと文字の小ささはスケールを添えて撮った写真からもうかがえる。

中学化学書

「中斈(ママ)化学書第一遍巻ノ上中下※ 15 理学士 磯野徳三郎編述 藤川勝丸冩」と奥書された写本がある。和紙47丁の作法通りに和綴じ装丁された縦22.4cm×横15cmの写本で、挿図も精緻極まる筆致で写図されている。

尋常中学校卒業

 明治22年(1889)、2月11日に大日本帝国憲法が発布され学校でも祝賀式が挙行された。その翌々月の4月1日に、静岡尋常中学校卒業式が挙行され、藤川勝丸たち17 名は第4 回生として卒業した。

4藤川春龍(1840 ~ 1929)

 天保10年(1840)に遠江国浜松在貴布禰村に生まれる。先祖は武田信玄の臣内藤修理亮昌豊でその五代の叡、内藤清十郎昌清が甲斐国から遠江国に移住して姓を藤川と改め同国長上郡貴布禰村に定め代々神官を継ぎ、春龍は昌清より八代目となる。

静岡師範学校時代の藤川春龍

安政年間に京都嵯峨御所天文方小松無極子恵龍※ 5について和算の円理截断までを学ぶ。次いで萬延より元治元年(1864)まで江戸の人大村一秀につき円理截断術の蘊奥を究める。また元治元年から明治元年(1868)の間、遠江の人元正紹より漢学を、同じく遠江の人有賀豊秋から歌学及び皇典を修業、明治2年皇典研究の祖平田篤胤の流れを汲む平田鉄胤に入門私淑する。翌3年(1870)、陸軍に出仕して川北朝隣※ 6、塚本明毅※ 7より西洋数学の手ほどきを受けた後、微積分学を究める。翌4年(1871)、静岡藩浜松郷学校教員を拝命以来教職に携り県立尋常師範学校、尋常中学校教諭などを歴任する。明治8年(1875)にキリスト教の洗礼を受けて以後深い信仰の道に入り、大正3年(1914)に名古屋市立名古屋中学校を最後に公職を退き専ら聖書に親しみその解釈を説き信者をして敬服せしめている。また数学に関する多くの著述を残して、その事跡は浜北市の郷土誌「郷土浜北の歩み」に「和算家藤川春龍※ 8」として取上げられている。昭和4年(1929)9月23日福岡市地行東町の長男・勝丸の居宅で逝去した。王政維新をなかに挟んでおよそ一世紀にわたる生涯であった。告別式は、同27日に天神町のメソジスト教会で行われて、福岡工業学校職員と生徒卒業生はじめ多くの知名紳士淑女の参列があり、またこれを去ること、2年前の昭和2年(1927)の9月5日に春龍は妻・蔦子を弔っておりこのときも同教会で葬儀が行われて、生徒代表として各科の生長が参列した。

 藤川文庫には、春龍の書簡や著書「天学破邪論」があり、佐田介石※ 9 の著述「視實等象儀記※ 10」に対する反論として佐田を偏屈子としてその唱える天文学を邪説とし、「…正道ヲ害スル挙動アルヲ以テ止ムヲ得ズ其邪論ヲ破棄セザル可カラズ…」として逐一「視實等象儀記」の該当箇所を逐一特定して反論を述べている。

「天学破邪論」と「視實等象儀記」

3生い立ち

 藤川勝丸は、明治5年(1872)3月5日※ 2に静岡県浜名郡平貴村(現浜松市浜北区)貴布禰33番地に、静岡藩浜松郷学校教師であった父・春龍、母・蔦子の二男四女の長男として生まれる。父・春龍の覚書によれば、「第六代勝丸ハ父春龍ノ撰ビシ名ナリ」として「続古今歌集」にいう一人の藤原大将を指す「藤浪の陰さし並ぶ三笠山 人に勝えたる梢をぞ見る」の歌に因み、人に超え行く可き者との義に言祝ぎとりて藤川勝丸と名付けたと書き残している。

 藤川の生誕の地は西に三方原台地、東に天竜川を望み静岡市までおよそ80kmの位置にある。幼少のみぎり掴まり立ちで行動が自由になったころ、偶々家人が二階で話し込んでいるときに、一人で階段を上ってきて顔を出した。一同驚愕して一瞬大声をあげ取乱して近寄ろうとした家人を制して、父・春龍がそっと近寄り抱き上げて事なきを得たという。これが自分の人生の危機一髪※ 3の始まりであった、と後世となり生徒に話かけている。

 明治16年(1883)12月20日、「小学中等科第二級卒業候事」として静岡県遠江国敷知郡(現浜松市)第壱学区町立小学浜松学校を卒業した。当時義務教育は小学校初等科の3年までで次の中等科の3年は任意であった。

2藤川文庫(1)

 藤川勝丸が大正14年(1925)以来、終の棲家として建てた邸宅に設けられた書斎に架蔵して伝えられてきた多くの蔵書や資料が出現したのは平成14年(2002)4月のことであった。小さな桐の箱に収められた、藤川誕生の証である臍の緒をはじめ相当量の書籍や関係文書や写真・記録類が継嗣の榮により生前のままに保存整理されてきていた。

 しかしながら榮の不慮の急逝により筆者がそれらの整理を行い「藤川文庫」と名づけて資料目録や年譜の作成を行った。残されていた多数の旧蔵資料は、孫となる藤川薫と秋山容子により福岡工業高等学校へ寄贈された。久保山昇校長は、校長室の机上に藤川勝丸の肖像を奉り、石井金蔵工友会長立会いのもと敬意をはらって寄贈を受けた。これらの資料は、学校史をより詳細にし充実させることはもとより、また日本の初等工業教育変遷の一端を窺わしめるに十分なものといえる。この資料内容は後にみるとして、以下この文庫の援用を加えながら述べることにする。