16自動車工業の黎明期に関わった福工生

 毛利輝雄が活躍した大正初年の自動車工業黎明期に関わった毛利の先輩や後輩についてあげておこう。

大江力(1887 ~?)
 大江力は、大分県下毛郡中津町字金谷(現中津市金谷)を原籍として明治20年(1887)7月7日に生まれる。明治37年(1904)に福岡工業学校機械科に入学、同41年(1908)卒業、明治43年(1910)第一高等学校英文科入学、この間神田南乗物町14に寄留、大正2年(1913)卒業に次いで、大正5年(1916)京都帝国大学政治学科を卒業して翌6年(1917)東京麹町区の梁瀬商会(現株式会社ヤナセ)※40に就職する。大正8年(1919)、内外鉱業株式会社機械部に入社。
 大正13年(1924)小石川区林町98に大江特許事務所を開設。昭和3年、東京巣鴨に居を移し発明考案に取り組む。昭和8年(1933)福岡市住吉蓑島(現博多区)日本足袋株式会社福岡工場長となる。戦後は、久留米の日本ゴム株式会社、次いでブリヂストンタイヤ株式会社に勤める。

15海外派遣

 毛利輝雄は大正10年(1921)3月11日の正午、農商務省海外実業練習生として横浜港出帆の東洋汽船ペルシャ丸で留学の途についた。このことを同年3月31日付けの交友会会報は、
「毛利輝雄君は、明治45年福機の出身にして、過般、瓦斯倫發動機研究のため農商務省海外實業練習生として向三ヶ年間の豫定を以て,北米合衆國(ママ)に向け三月十一日正午、東洋汽船ペルシャ号にて横濱港を出帆せられたり」と毛利の海外研修の壮行を報じている。

渡米を報じる会報

米国通信
 在米留学中の毛利は、母校同窓会に在米研修の様子を伝え、この通信は早速「福岡校友会会報」(同11年7月10日付け)に「米國通信(毛利輝雄君)」、として次のような文面を紹介している。
 「…出発前御面會申さざりしは實に残念に奉存候、何様問題が一時に輻輳致し候爲め東洋汽船に対する船室の申込みの如き三月十一日出帆の筈なるものに四月一日に申込み候様なる儀にて帰福は致候も何處も御伺い致さず、唯野田逓信大臣の仰せにより縣知事※ 37に面會致し數分を過したるのみに御座候。小生此度の研究の目的は自動車機關製造に關して工場見學を主眼に致し居り候えども当地に於ては日本人に対する工場研究は最も不可能事に候て入社すること甚だ困難に御座候。三ヶ年間は當米國内地に於て研究する考へに候も尚其余暇に於て獨逸か仏國の飛行機製造工場ローン會社※ 38に數日を費す豫定に候。内地に於ては一も二も外国人と見も知らぬ文明國を憧れ申候へども当地に参りてより、左程にも感じ申さず人惰は紙の如く薄く多數の異なれる人種の寄合の仲間に交はる事は常に内地に於ける様な安心を得ること能はざる儀に候。随て我と我身を守り一秒の油断も出来申さず候、一言にして申上ぐれば矛盾の塊りに候。叉一面には大に學ぶべき處も多くこれ有り候。人力を機械力に替へんが爲め日々市場に出ずるパテントなるものは實に驚くべきものに候。さすが時これ金なりの國に侯。人物は決して学ぶべき必要なく候。只今小生はChandler Motor Car Commpany Lmd.City Cleveland Ohioに外國留學生と云う名義の下に全部の各部分に渉り研究する事を許され居り侯。当杜の製造能力が一日九時間六十三台平均に候。一台値一干五百六十弗に候、昨年の今頃は全職工五百人一日二十五台に候いしが、只今は職工
一千五百人に上り申し候、御参考までに當地發発行米新聞一部御送付申上候
云々」
 それによると、専らクリーヴランドのチャンドラー自動車会社で研鑽を積む傍らミシガン大学で自動車工学を学んでいる。この時の同窓生に、後に音楽関係で広く知られている堀内敬三※ 39がいた。

研修終了帰国
 大正13年(1924)の春、3年間の実務練習を終えて帰国した毛利は、同年5月25日報告をかねて母校福工を訪問した。この日は生憎、藤川校長は休みを取っていて、丁度授業中であったが学校は急遽全生徒を集めて、短時間であったが講話の時間をとった。
 これを受けて校長は、6月5日の朝誨で、「米英仏ノ飛行機世界一周競争」と題して、我飛行界の現状は未だこれに及ばざるの感があると話し、次に卒業生の消息に触れて機械科明治44年卒業の柴藤啻一の死去を惜しみ、さらに毛利輝雄について次のような内容で紹介した草稿が残っている。
 「此ノトキ当校卒業者44年ノ柴藤啻一(日本自動車ノ技師長)先日病死セシハ痛惜ニ耐ヌ(彼ハ将来斯界ニ有為ヲ期待サレシ人)」、「…然ニ45年ノ毛利輝雄、三年間米国デ研究ヲ了リテ復帰シ東京瓦斯電気工業株式会社ニ就職スルハ聊将来ニ望ヲ託サルニ足ラレ、将来アル生徒諸子ノ発奮ヲ望ム」
 と生徒に話しかけている。
 また毛利の帰国について、大正13年7月18日付け同窓会報に、「欧米土産」として次のように報じた。
「毛利輝雄氏は農商務省より、三年間の豫定を以て欧米に派遣せられたり、このたび無事帰朝、多忙の間を偸みて大正十三年五月二十五日來訪された、何様授業中で短時間ではあつたが、欧米に於ける種々の珍らしい話、竹場露嘉氏の米國に於ける奮闘振りなど、聞いて大いに意を強うした、尚氏研究事項、見聞、所感などは他日本紙で報道してもらうことにした」

星子勇(1884 ~ 1944)

星子勇

 明治17年(1884)熊本県鹿本郡鹿本町(現山鹿市鹿本町)に生まれる。同36年(1903)、第5高等学校工学部機械工学科(後熊本高等工業学校、現熊本大学工学部)に入学、同40年卒業後住友鋳鋼場(後住友金属工業株式会社)に入社するが、兵役のため退社して小倉野砲兵第12聯隊に入隊する。除隊後の明治44年(1911)大倉商事に入社するも、前年設立された同系の日本自動車合資会社に工場長として転じる。大正3年度の農商務省海外実業練習生として「軽油発動機及自動車業」の研修目的で米国デトロイトのハドソン社及び英国コベントリーのデラウェア社に留学・研修する。大正5年(1916)帰国後前職に復帰するが、翌6年東京瓦斯電社長・松方五郎の招聘により発動機部長として入社する。我が国最初の純国産トラックTGE A型の開発を主導し、以後日本の軍用及び民生用自動車の開発に関わり大正13年(1924)に取締役となる。昭和3年(1928)には、国産初の航空エンジン「神風」を完成。
 大正6年(1917)からディーゼルエンジンの研究開発をはじめ昭和7年(1932)に軽量高出力のオールアルミエンジンや石川島自動車・鉄道省などと共同開発し「いすゞ号」として知られている「商工省標準型式車」TX型トラックなどの開発に携わった。昭和17年(1942)日野重工業株式会社取締役となるが、長年の激務により昭和19年(1944)毛利輝雄と同様過労のため逝去する。平成22年(2010)に自動車殿堂入りとなった。「ガソリン発動機自動車」
 (大正4年)、「機械工場作業計画」(昭和9年・同16年)などの著書がある。

星子勇著「自動車」

14軍用自動車補助法

 大正となって軍用自動車調査委員の調査や、欧州英・独・仏の各国で実施している軍用自動車の民間保有方式などに鑑み、先ずは国防上の観点から民間保有の自動車を指定して補助金を支給し有事の際の徴用に備えるとともに、日本の自動車工業の発達に資することを目的として、大正7年(1918)3月23日に法律第15号として「軍用自動車補助法」が公布された。
 第1条の「政府ハ予算ノ範囲内ニ於テ陸軍ノ軍用ニ適スベキ自動車ノ製造者又ハ所有者ニ対シ補助金ヲ下付スルコトヲ得」に始まる22条からなり、第7条は「製造補助金ヲ受ケタル自動車ハ…之ヲ保護自動車ト称ス…」、第8条は「主務大臣ハ軍用ノ為何時ニテモ保護自動車ヲ収用又ハ使用スルコトヲ得…収容又ハ使用シタル場合ニ於テハ…所有者ニ補償金ヲ下付ス…」とされている。

軍用自動車補助法施行細則
 同年5月1日には陸軍省令第8号として、同法の施行細則が60条からなる施行細則が定められ、第5条で「自動車製造ノ為供用シ得ベキ外国製品ハ当分の内左ノ種類ニ限ル」として、使用を認める外国製の部品は、「1.発電機及点火具、2.揮発器、3.球軸承※ 36、4.陸軍大臣ノ認可ヲ得タル特殊品」とされ、国産品ではまだ使用に十分耐えるものがないことを示している。また、「第二章保護自動車ノ構造及能力」、更に附則として「自動車部品ノ様式及寸度」など、技術的指定がなされている。
 このなかで、寸法の単位についてはメトリック制度の使用としており、使用するねじの規格をメートルねじとするようにした。これまでは、明治以来使用されている吋(インチ)による表示、製作であったので企業によってはいくらかの混乱が生じたといわれている。これは、大正10年(1921)に日本で初めて制定される日本標準規格(JES、Japanese Engineering Standards)を目標としたものともいえる。
 大正7年(1918)2月3日、軍用自動車補助法の公布に同5月1日実施に応じ、TGE A型が同法による保護自動車検定試験に合格、保護自動車検定書第一号を受領している。

13軍用自動車調査委員会

陸軍技術審査部
 明治37年(1904)から翌38年の日露戦争後、荒漠たる原野での戦闘を経験した陸軍は大量の砲・弾薬その他物資の補給搬送に関して今後の問題点を探るため、明治40年(1907)に陸軍技術審査部にこれらに関連する自動車の調査研究を命じた。これを受けて審査部は、フランスのノーム自動車会社の自動車2台をはじめとしてフランス・スナイドル社製、ドイツ・ベンツ社ガッケナウ工場製の自動車を購入、長距離運行などの比較調査研究を始めた。これらの研究を基にして大阪砲兵工廠で国産自動貨車(トラック)「甲号※ 35」が完成した。

陸軍技術本部
 大正8年(1919)4月15日、それまでの技術審査部は改組され陸軍技術本部となった。陸軍兵器及び兵器材料の審査、制式統一、検査を行い、また陸軍技術の調査研究、試験を実施しその改良進歩を目的とした。昭和16年(1941)、陸軍兵器行政本部の設置に伴い統合廃止された。この技術本部自動車班に、大正12年(1923)に福岡工業学校機械科を卒業した蓑原茂喜(糟屋郡)、橋本又男(浮羽郡)の2 名が入っている。

軍用自動車調査委員
 これらの結果を受けて陸軍は、自動車の採否の決定のため技術の研究と民間自動車の奨励と戦時徴用の方法の諸問題の調査研究のために明治45年(1912)6月、陸軍省は軍用自動車調査委員の制度を設けた。
 同年8月には、3週間にわたり「甲号」、輸入トラック「スナイドル」の各2台計4台により満州で雨期自動車長途運行試験を実施、泥濘路での実験により、適切な性能要件と自動車の使用範囲の限界について具体的な資料を収集し、これらをもとに日本のメーカーによる開発試作を要請することになる。

12毛利輝雄工場となる

昭和3 年(1928)
 このころ毛利輝雄は、自動車工場長となり試作と開発に取り組んだ。4月にTGE-L型の設計が完了して、試作に取りかかり秋に2台が完成し軍用保護自動車の資格審査に好評を得て合格する。陸軍からの注文があり、月産10台となり民間にも販売され相当数が使用されるようになった。

「ちよだ」S 型省営バス昭和7 年

 L型の試作時代は、連日の運行検査と諸般の指揮監督に没頭して完成から生産に脳漿を絞り体力を注ぎ込んだという。これが後に宿痾の侵すところとなった。

昭和2 年(1927)朝鮮・新義州での耐寒試験
TGE-L 型トラック
昭和3 年(1928)箱根越え、最後尾車と毛利

昭和5 年(1930)
 新設計のTGE-L型の後2軸をウォームギヤ駆動する6輪2屯積のTGE-N型が完成する。また同年9月に省営バスTGE-MA型(MP)が完成、愛知県、山口県などで運行がはじまる。
 保護自動車となったTGE-N型が関東軍に配属することになり、現地実地試験が行われ不整地の走行や急遽実行された日露戦争で知られた旅順の203高地への登坂を実施して成功している。

昭和6 年(1931)
 このころ毛利は、持病の喘息に苦しみ養生を兼ねて暫く欠勤をするが、持ち前の厳格実直さから、「工場の忙しいときに永く病気で休み、職責を果たすことができず皆さんに心配をかけて真に相すまぬ、どうか会社をやめさせて呉れ」と会社に申し出たと上司の星子勇は述べている。
 TGE-MP型トラックが宮内省に買い上げられ、翌年のTGE-N型から「ちよだ※31」と称されることになった。またTGE-M型には4輪サーボブレーキを備えた低床フレームのバスも作られた。「ちよだ」P型で6気筒エンジンを搭載、省営バスにも使用、更にちよだQ型、ちよだS 型へ改良されている。

TGE-N 型6 輪トラック

昭和7 年(1932)
 瓦斯電は、陸軍の指揮官用乗用車の開発要請に応じ、エンジンは既存のトラックのものとし、駆動系、懸架装置など全て新しく設計して「ちよだ」H型乗用車試作が開始された。前年9月に満州事変の勃発以後、昭和12年(1937)の日中戦争へと拡大していく中、指揮官用乗用車の需要が増え、最盛時の昭和11年から12年には、月産80台に上った。この時期大森工場には、毛利の後輩となる堀内敬次(昭和7年卒、筑紫郡)が入社して航空機部に配属されている。

昭和9 年(1934)
 「ちよだ」H型を3軸6輪車としてHS型となり国産初の軍用乗用車として九三式六輪乗用車として制式化された。これに後に四輪に履帯※ 32を付けて不整地でも走破する事ができた。

昭和11 年(1936)
 九三式六輪乗用車を2軸4輪化して「ちよだ」HF型とし、これが九三式四輪乗用車となり、HS型と共に月産80台程度で量産された。他に川崎車両、トヨタ等も指揮官用乗用車の開発を行っている。

逝去から終戦まで
 毛利輝雄の逝去直後の昭和11年(1936)5月、自動車製造事業法が制定・公布され、これは外資の「日本フォード」と「日本GM」を排除して日本のメーカー育成を重点とするものであった。さらに翌12年(1937)には戦時統制三法※ 33が公布され企業活動も戦時体制へと導かれ、同16年(1941)には大東亜戦争が勃発した。もしもこの開戦を、3年間にわたり自動車工業先進国アメリカで学びその工業力の実態を知っていた毛利輝雄が生きて知ったならば、日本の工業力の現状についてどのように洞察し、あるべき姿を思い描くであろうかと興味深いものがある。
 毛利輝雄が生涯を捧げた東京瓦斯電気工業は、終戦を経て戦後に至る激動の時代を、多くの曲折を経て、日野自動車株式会社、いすゞ自動車株式会社となり現在に至っている。

11省営バスの生産

 昭和4年(1929)に鉄道省は、輸送量の少ない地域における、鉄道の補助・代行機関として、既設の道路を利用して自動車運輸事業を行うという意見を受けて、自動車交通網調査会を設置した。この調査会が、全国78路線の自動車交通網の答申を行い、鉄道省では自動車運輸事業を行うことを決定した。この時、使用する車両は国産自動車とする方針も決定されたが、これはようやく成長を始めた国内自動車製造業の振興という側面もあった。

標準型式自動車「ちよだ」号
 瓦斯電は、このような要求に見合うバスを試作のうえ昭和5年9月にTGE-MA型を完成させ、昭和5年(1930)12月20日に省営自動車路線第1号として、岡多線※ 30の運行に合わせて使用され、この車は後に「ちよだ」と命名され、また石川島自動車製作所の製造したものは「すみだ」と呼ばれた。

商工省標準型トラック・TX35 型