10自動車工業確立に向けて

 毛利輝雄が組立工場主任となった翌大正15年(1926)5月7日、商工省は国産振興を目的として「国産振興委員会」を設置し、政府は昭和4年(1929)9月に至るまでに「自動車工業の確立の方策」を諮問して、同5年5月に自動車の国産化を図るための「自動車工業確立調査委員会」の設置と「標準型式自動車の試作」が肝要との答申を得た。
 商工省は国産自動車工業確立に向けて、昭和6年(1931)6月「自動車工業確立調査委員会」を設置した。委員には東京帝国大学・斯波忠三郎を筆頭に内務省、大蔵省、陸軍省、商工省、鉄道省の各省庁から委員が出され、会社企業は瓦斯電・石川島自動車製作所、ダット自動車製造の3社からなる国産自動車組合の社長松方五郎・渋沢正雄・久保田権四郎が入り、臨時委員として東京帝国大学から隈部一郎が名を列ねている。

瓦斯電の広告(大正15 年)
瓦斯電自動車組立工場

商工省標準型式自動車
 委員会は昭和6 年(1931)7 月9 日を第1 回として第3 回を同7 年3 月11 日の開催を経て、商工省は「商工省標準型式自動車」貨物車(トラック)TX35、TX40、乗合車(バス)BX35、BX40、BX45※ 29の5種類の自動車の試作を国産自動車組合に委託した。
 設計は鉄道省でシャーシとボディー内外装、石川島自動車製作所でエンジン、ダット自動車製造でトランスミッション、東京瓦斯電気工業で車軸系をそれぞれ担当した。

標準型式自動車「いすゞ」号
 昭和6年(1931)9月に各型式2台の試作に着手し翌7年3月10日に完成した。商工省、陸軍省、鉄道省と斯界の権威者により、最高速度、加速度、制動能力、登坂能力、回転半径、燃料消費量などの各種の性能試験に続く1週間にわたる東京・長野・名古屋・東京間1,000kmの走行試験を行った。またこの間に山地運行・夜間走行を行い、帰着後には動力試験の後、1 ヶ月にわたり使用状況や耐久性等の検討が行われた。結果は概ね良好であったが、
 多少の設計変更を経て国情に適する、TX35、TX45の型式各1両の試作が委託され、同7年11月に完成の後、東京・三島・天城・下田・土肥・宮ノ下・平塚・八王子・東京の経路で走行試験、帰着後は分解検査を含む前回同様の検査を終え、その結果は前回以上の成績に達した。これに外観その他についての改善を受けて「標準型式自動車」の要件を満たしたとして、政府が指定する保護奨励の車種の1 つとして決定をみた。
 昭和9年(1934)、この自動車の名称は公募の上、伊勢の五十鈴川にちなんで「いすゞ」と命名された。
 軍用保護自動車の製作は、初期には主に瓦斯電、川崎造船所車両部(後川崎車両)、石川島造船所自動車部があたったが後には、昭和6年に軍用自動車の本格的生産のためにダット自動車製造が加わり、「東京瓦斯電気工業」「石川島自動車製作所」「ダット自動車製造」の3社が主たる軍用保護自動車メーカーとなった。
 この「いすゞ」号は、毛利輝雄の送葬のおりに、故人に供えられた花輪供花を満載して霊柩車を先導することになる。

9海外実業練習生派遣制度

福岡工業学校が創立した、明治29年(1896)農商務省は、日清戦争後の近代日本の実質的確立を目指し、またそれによる貿易拡張計画の一環として、経済・工業・農業・芸術等の分野で先兵となって実動する人材を育成するため海外実業練習生派遣制度を創設した。
 研修する業種は、染織、機械、化学、電気の諸工業はじめ農林、水産業から一般商業、美術工芸まで18の広い業種分野におよんだこの制度は、留学先として、英国、仏国、米国、独国、伊国などの欧州各国、支那、印度など16 ヶ国に及んでいる。昭和3年(1928)まで30年間継続され、練習生の合計は857名にのぼっている。
 審査によって選抜される志願者は、3 ヵ年の練習期間を与えられ、その資格は中学校卒業以上とし練習する実業に1 ヵ年以上の経歴を有する者、練習目的地の語学に堪能であることであり、また練習資金は原則として自費支弁であったが、練習地に応じて支給される練習補助費その他の費用は農商務省の海外貿易拡張費として確保されていた。
 大正11年(1922)に農商務省商務局が発刊した、海外実業練習生一覧には明治29年以降各年の「実業練習生採用員数及其練習科目表」がある。これにより各年度の産業別の練習生数がわかるが、当局がどのような産業技術に重点をおいて導入していったかがうかがえる。例えば、彫刻家として名高い高村光太郎(明治40年度/仏国)の室内装飾彫刻や、1名だけの綾部策雄(明治30 年度/ハンブルグ)の捕鯨業などの特徴的な例もある。
 明治29年度の10名にはじまり、毛利が試験に合格した大正9年度は15の業種について89名が採用されて、この時点までに合計648名が練習生となっている。
 また、大正9年度は、雑工業19名、一般商業18名、機械工業12名、化学工業10名の順となっている。

自動車に関わる練習生
 練習生が研修した15業目に分けられたなかの機械工業のうち、研修テーマを「発動機・自動車関係」とした練習生をみると、橋本増次郎※ 26(明治35年/愛知/米国/機械製造業)
 加藤重男  (大正元年/東京/米国/内燃機関製作)
 星子 勇  (大正3年/熊本/米国/発動機及自動車)
 須藤 勇  (大正7年/大阪/英仏国/飛行機及自動車用発動機製造)
 堀  久  (大正8年/岡山/仏国/自動車)
 竹場露嘉  (大正10年/愛媛/米国/外輪※ 27製作業)
 山縣順三郎 (大正10年/福岡/英仏国/航空発動機及航空機製作)
 松本明吉  (大正13年/岩手/米国/自動車製作業)
などがいた。
注:( )は、順に採用年度、出身府県、留学地、研修内容を示す。
このうち竹場露嘉については後述するが、毛利の4年後輩となる大正5年(1916)に福岡工業学校機械科を卒業しており、出身工業学校を同じくする例は少ないものといえる。

自動車組立工場主任となる
 大正14年(1925)に欧米派遣留学から帰朝して、瓦斯電に復職した毛利輝雄はこれまでの働きに加え、研鑽した最新技術を生かした更なる手腕を期待されて自動車組立工場主任を命ぜられた。このとき自動車部長は星子勇であった。
 自動車工場は、これまでのホイスト工場に移転して、施設の新築や新鋭の機械などを導入し自動車部が拡張された。このような改変には、自動車製造とホイスト製造を同一視する重役もいたが、首脳の判断を受けて移設作業を実質断交したのが毛利輝雄であった。これにより後に、石川島自動車製作所を瞠若させることになり、後に惹起した満州事変の際の生産に対応することができた。

8大正9年度練習生

 大正9年度採用の練習生数は、各分野合計30名、現在練習中の者各分野合計89名で留学地域別では、アジア※ 2214名、ヨーロッパ※ 2318名、アメリカ※ 2455名、その他2名の計89名であった。
 また、機械工業分野は11名でそのうち内燃機関、自動車関係は次の4名であった。
 練習生には官費により研修補助が給付され、5名とも月額75円後には120円支給されている。
 このときの研修内容、出身地、研修地は次のとおりである。
 堀久 自動車 岡山 パリ
 毛利輝雄 瓦斯倫発動機 福岡 デトロイト
 白澤 元 内燃機関工業 長野  デトロイト
 須藤 勇 飛行機及自動車用発動機 大阪 ニューヨーク
 櫻井一忠 家具及車両体製作 東京 セントルイス
 また、白澤 元は後に陸軍技術本部に勤務後、陸軍自動車学校研究部に在籍しているときに「毛利輝雄氏を語る」の発刊に際して、追悼の言葉を寄せている。

ミシガン大学の学友、左端が毛利
在米中の袴姿

濱 訓良※25(1870 ~?)

濱 訓良

 教諭濱訓良は、明治33年(1900)に東京高業学校(現東京工業大学)図案科を卒業して福岡工業学校に赴任していたが、在任中の明治37年(1904)4月に休職して同年6月から同40年6月まで、デザイン研修のため海外実業練習生として米国ニューヨークに留学している。帰国後、日本電報通信社(現電通)に入り後に取締役を勤めている。
 毛利が福岡工業学校2年生になったときに、濱は帰国して工業学校を退職しているが、このときに海外実業練習生の存在を身近に感じたのではないだろうか。

7海外派遣留学

 東京瓦斯電に入社した毛利は、自動車の知識、特にガソリン発動機の研究を深めるため自動車工業の先進国となっていた米国で学ぶべく、農商務省の海外実業練習生派遣の希望を持っていた。海外実業練習生採用には選抜試験があり試験科目の最初に練習目的地の語学があり、その内容は和文外訳、外文和訳、会話となっている。毛利はかねてからこの事が念頭にあり、米人の宣教師のいる教会の「バイブルクラス」に入り宣教師と教義を諳んじ会話の練達に務めたのであろう。日曜日の朝には喘息もちの身にかかわらず大声で賛美歌を歌い近所の赤子も驚いたと、実弟の岡村福男が述べている。
 試験は例年9月の上旬か中旬に商工省で行われており、同窓会報の消息欄によると大正9年5月の住所が福岡市警固町谷六軒屋(現中央区桜坂1)となっていることから、受験に備えて集中して取り組む為の帰郷であったと推定している。
 かくて、毛利輝雄は、大正9年度派遣の海外実業練習生として選抜され海外派遣が実現することになった。

英文の卒業証明
 藤川文庫の資料のなかに、学校長藤川勝丸が書いた英文の卒業証明書の草稿が残されていた。発見当初はその卒業証明書の目的は分からなかったが、毛利輝雄が海外実業練習生であったことが判明して、留学研修先のミシガン大学かチャンドラー自動車会社に提出するためのものと考えられ、その内容は以下のようである。

The※ Fukuoka※Technical※ ※School.Mechanical※ Engineering※ Depatment
※ Certificate ※ of ※ Graduation.Know ※ all ※ men ※ by ※ these ※ presents,that ※
Teruo※ Mouri,※ having※ completed※ the※ course※ of※ study※ indicated,and
having maintainend a good moral character is ※ hereby ※ granted ※ this ※certificate.
Done※ at※ Fukuoka,Japan
The※ 23rd※ day※ of※ March,1912
Signed※in※ behalf※ of※The※ Facaulty,Principal.※Km※ Fujikawa

藤川校長の卒業証明草稿

6軍用自動貨車民間試作勧奨

大正6年(1917)に、瓦斯電は大阪砲兵工廠から「陸軍制式4屯自動貨車(トラック)」の試作勧奨※ 14を受け、同工廠が製作した乙号自動貨車※ 15の詳細図面、材料、素型材、試作費まで支給された。陸軍の要請を受けた瓦斯電は、社内呼称で「A型」の試作を開始した。社長松方五郎※ 16はこれを機に、これまでのガス器具生産技術で培った砂型鋳物技術のエンジン製造への応用などを基に将来の自動車部門進出を見据えて自動車製作と航空機製作をする内燃機部※17を設置し、製造技術の統括として日本自動車合資会社から星子勇を招聘※18した。

大森工場
 第一次世界大戦時の大量の軍需生産終了後は、諸計器類や発動機の設計生産を開始するが、自動車製造に乗り出すにはこれまでの業平町工場では手狭になり、京浜地方となる当時府下荏原郡入新井町不入斗(現大田区大森)に新工場の建設を計画した。大正6年(1917)6月、大森工場の一部が竣工して操業を開始し、航空機・自動車・工作機械・兵器・計器・紡績機などを生産した。毛利輝雄が入社したのは、新工場である大森工場が完工したばかりのころで、瓦斯電が自動車部門に主力を注ぎ始め、軍用保護自動車生産と運用試験を始めていた。工場には、クランクシャフト旋盤、歯切り盤、カムシャフト・グラインダー、スプライン軸を加工するブローチ盤など米国製の最新の工作機械が敷設された。

瓦斯電大森工場正門

後輩の入社
 大正9年(1920)の春となり、卒業したばかりの後輩が入社することになった。鎌田弘助(機械科大正9年卒/糸島郡)で、自動車工場工作課造機部に配属され、後に日仏シトロエン自動車会社に移っている。

軍用保護自動車の試作・採用
 瓦斯電は、陸軍制式4屯自動貨車の受注生産の他に、車体は米国リパブリック社製のトラック※ 19を参考にして自社で設計、これに独自設計のガソリンエンジンを搭載した貨物自動車の製作に取り組んでいてこれを社内呼称で「B型」と呼んだ。
 大正7年(1918)の軍用自動車補助法の公布に応じて、「B型」を同補助法にいう保護自動車の検定試験に応募して合格、保護自動車第1号として陸軍に採用され、国産の量産トラック第1号となり5台が生産された。これは、「TGE-A型※ 20」の商品名で発売された。保護自動車となった、「TGE-A型」は製造会社も購入者ともども補助金を受けられることになった。
 保護自動車の資格検定規定では、10日間で1,000kmを走行、その間に8分の1勾配の坂道を上り下り、3時間連続時速12km運転、試験前後のエンジン性能検査、最後に分解検査というものであった。

TGE-A 型トラック

その後のTGE-A型
 保護自動車となったTGE-A型は、大正11年(1922)に改良型のTGE-G型軍用保護自動車として申請許可され11台が民間に販売されたが、不具合も起こり全部返品になって倉庫入りになるなど、第一次世界大戦後の不況により需要もなくなり、大正後半の自動車部門は底迷状態が続いた。
 大正10年(1921)にはTGE-B型自動貨物車を完成製造したが、翌11年に関東大震災に見舞われ一部の工場が被災するなどして保護自動車の製造は一時中断した。
 このとき、毛利と大正15年に入社してきたばかりの安藤喜三は、星子に呼ばれて、例の「分解して倉庫にあるG型車を基にして、君たちが思うような車をつくってみよ」と云い渡された。そこでまさに夜を日に継ぐ昼夜兼行、日曜祭日も返上して作業に取り組んだ。足掛け3 ヶ月後の10月末に完成したのが、TGE-G1型であった。
 この運行試験には、陸軍自動車学校研究部長の長谷川正通大佐が担当であった。後に少将となった長谷川は、毛利の追悼文を書いている。この間の瓦斯電の経営を支えたのは、陸軍に納めるフランスの航空エンジンローン80 型、120型※ 21の2機種のライセンス生産であった。毛利は海外研修の際に、ローン社の視察をしているが、このような時期皆が航空エンジンに目を奪われているときに黙々と自動車の研究をしていた、と星子勇は回想している。
 昭和となりG型を改良したGP型も保護自動車となった。装備も進化してエンジン始動は、手動クランク始動から電動スターター始動に、ホイールは木材スポークから鋳鉄スポークホイール及びディスクホイール、タイヤは現代と同様の空気タイヤに、ヘッドランプはカーバイト灯火から電灯へと進化している。また軍用の特殊車両や民間にも多数使用されている。

TGE-B 型貨物自動車図面

5瓦斯電に入社

 大正8年(1919)に三洋社を解散して9月に、自動車、工作機械、発動機、計器類、兵器、紡績機などを主力生産とする前月に完成したばかりの東京瓦斯電気工業株式会社の大森工場に入社する。
 この毛利の入社については、日本自動車合資会社の先輩で瓦斯電の統括技師となっていた星子勇の勧誘によるものではないかと思われる。ともに自動車の販売・修理ではなく製造についてより興味を持ち、また技術習得に有効な海外実業練習生を既に経験している星子の入社後の研修の示唆などもあったのであろう。

東京瓦斯電気工業株式会社
 明治43年(1910)8月に「千代田瓦斯会社」の子会社として、元佐賀県知事徳久恒範が発起し有力財界人の協賛を得て設立された瓦斯灯のマントル※ 10を製造する工場を本所区業平町(現墨田区業平)に建て操業開始した「東京瓦斯工業」を前身とする。
 大正2年(1913)に、来るべきは電気の時代と業務拡大を企図して、社名を「東京瓦斯電気工業」と改称し略称を「瓦斯電」、或いは「Tokyo Gas Electric Engineering」から「TGE」とも称した。第一次世界大戦※ 11に伴い、瓦斯電は大阪砲兵工廠※ 12の指導を受け砲弾の信管※ 13など大量の受注により当時民間企業としては唯一軍需品を輸出した。