4国産印画紙開発にも関わる

勝伯爵との出会い
三洋社を解散する前後、毛利輝雄は後にオリエンタル写真工業※ 9の取締役である勝精(かつくわし)との交流があった。
 勝は、大正11年(1922)ころから邸宅内に設けた工作所で、国産オートバイの開発に乗り出し同12年に「ジャイアント号」を送り出しているが、この試作に関わっていた瓦斯電の元同僚・杉野繁兼の証言によると、「…あるとき、伯の口からふと毛利氏の話が出て始めて勝伯と親交のある事を知った。話は夫れから夫れへと遡って氏が日本自動車に勤めていた頃、かつて伯爵が写真印画紙製造の研究をしていた当時、氏は仕事の傍ら右研究の一員となって居たことがある。今の『オリエンタル写真工業』は此の研究結果を基礎として出来たものであるが、自動車界の毛利氏は良く知られているが国産写真界の毛利君を知っている人は余りないらしいが、其の功績たるや尠なからざるものがあると思う」と述べ、また毛利が帰朝の折には横浜埠頭には勝伯爵と杉野の姿があった。

勝精

オリエンタル写真工業
 オリエンタル写真工業は、菊池東陽が在米中に研究発明した写真用感光乳剤の国産化を目指して、大正8年(1919)9月に設立された会社で写真用印画紙と乾板フィルム類の製造販売を目的とする会社である。
 大正9年(1920)3月31日の第1期株主名簿には、伯爵勝精、菊池東陽、公爵徳川慶久、渋沢敬三はじめ総数56名にのぼり、勝、菊池両氏の2,000株を筆頭に20株の株主として毛利輝雄もその末席に名を連ねている。そのときの毛利の宿所として赤坂区溜池町30番地(現港区赤坂2)と記入されている。

勝精(1888 ~ 1932)
 明治21年(1888)、徳川幕府最後の将軍であった徳川慶喜の十男として生まれる。勝海舟の孫と結婚して勝家を継ぎ伯爵を授爵する。勝はニューヨーク滞在中に知り合った菊池東陽と日本での写真工業会社設立について意気投合、大正8年4月にアメリカから帰国すると、米国で学んで得た知識と情報をもとに自宅で乳剤や印画紙試作の実験を行っていたが、この試作実験に毛利輝雄は関わっていたという。

3日本自動車に入社

卒業後は直ちに上京して東京芝区琴平町2番地(現港区虎ノ門1)に本社がある日本自動車合資会社に入社する。この年7月に元号が大正と改まるが、当時日本自動車合資会社は高田商会自動車部、梁瀬自動車とともに大正期における3大自動車会社の1つであった。

同期入社の先輩

このとき、同期入社となる柴藤啻一は毛利輝雄の福岡工業学校の3年先輩で大阪高等工業学校機械科(後大阪大学)を卒業しての入社であった。

日本自動車合資会社

日本自動車合資会社

 日本自動車合資会社は、明治39年(1906)に吉田真太郎※ 5が内山駒之助を技師として設立した東京自動車製作所がはじまりである。吉田真太郎は、明治40年(1907)にガソリン自動車国産第1号となる吉田式自動車を製作し、「タクリー号」と呼ばれた。この第1号車は有栖川宮威仁親王に納入され、続いて10台が生産されたが、同製作所の経営ははかばかしくなく大倉財閥の2代目大倉喜七郎が石澤愛三※ 6を支配人として再建をはかり明治42年(1909)大日本自動車製造合資会社として改組され京橋区東豊玉河岸に設立した。さらに明治43年※ 7に日本自動車合資会社に改組され内山駒之助が去り、後任には後に毛利輝雄が上司として出会うことになる星子勇が工場長となる。貸自動車、輸入車販売、自動車修理及び車体架装、部品販売などが主要業務となり自動車製造から撤退した。大正2年(1913)に本社屋を赤坂区溜池町30番地(現港区赤坂)に新築移転して、翌3年石澤が社長となり株式会社に組織変更され、以後斯界で最も古い歴史を持つ代表的な自動車販売会社として昭和43 年(1968)まで続いた。

日本自動車勤務時代の毛利輝雄


 また全国に支店を設け、福岡では東中洲210番地(現博多区中洲3)に福岡出張所と付属部品部を開き、博多上呉服町の梁瀬自動車博多支店とともに中央大手2社が覇を競った。福岡には大正15年(1926)までには地元の自動車の販売修理を営む商会や店舗合わせて10 社が存在していた。

三洋社を興す

 大正6年(1917)となり、日本自動車合資会社を退社して東京赤坂区溜池町30(現港区赤坂1)に居を構えて、同志3名とともに、衆議院※ 8(現経済産業省所在地、霞ヶ関1)前に、外国車の輸入販売修理を業務とする三洋社を設立した。この時期大正3年(1914)に日本の全国自動車保有台数が、1,000台を超え同6年には2,672台、同9 年には10,000台に、昭和元年(1926)には40,000台と急速な増加を示す変遷となっている。
 自動車の普及が進み、この周辺に輸入外車を中心に販売店が集積するようになり、以後昭和となり同40年(1965)代にいたるまで自動車街と呼ばれるようになった。

三洋社
三洋社時代の毛利輝雄

2生い立ち

福工時代の毛利輝雄

 毛利輝雄は、明治24年(1891)2月29日※ 3福岡県鞍手郡吉川村大字脇田(現
宮若市脇田)を原籍とする父・博次の長男として横浜市長住町9番(現横浜市西区みなとみらい)の官舎に生まれ、そして福岡で育った。実弟・岡村福男※ 4の言によれば、福岡の小学校時代には既に自動車に関わることを志し、そのため海外渡航の必要性を悟り、その準備として英語の勉強のために町にある教会の「バイブルクラス」に入った。その時に覚えた讃美歌を気分が優れているときには大声で歌うこともあったという。

福岡工業学校入学と卒業

 毛利は、明治39年(1906)福岡工業学校機械科に入学するが、学年途上に病を経て27名の同窓とともに卒業したのは明治45年(1912)3月であった。このなかには、「列伝Ⅰ」の山喜多二郎太で述べたともに機械科卒の飯野憲一郎や後述する白石好夫がいた。

1追悼の書

毛利 輝雄

 冒頭の写真は、昭和11年(1936)3月11日東京大井町北濱川1033(現品川区東大井)に逝去した毛利輝雄(もうりてるお)の追悼の書、「故毛利輝雄氏を語る」の巻頭に掲げられている遺影である。
 毛利が勤務していた東京瓦斯電気工業株式会社(以後瓦斯電(がすでん)とする)による盛大な葬儀が13日に執り行われ、祭壇にはこの遺影が掲げられた。椅子の肘掛に右腕をまかせて正面に向けた面長の顔が宿す眉宇、静かであるが精悍で聡明な眼差しと引き締まった口元は内なる強い意志を秘めてこちらを見ている。
 毛利の没後の僅か2 ヶ月足らずの翌4月28日に、故人となった毛利輝雄を偲んでこの追悼の書が東京で刊行されている。筆者がその存在を知りこの追悼集を入手したのは、それから63 年後の平成21 年(2009)であった。
 この80頁にわたる「追悼の書」により、同窓会報などによる断片的な消息でしか知り得なかった毛利の人となりがはっきりと浮かび上がってきた。
 そしてこの遺影は、「列伝Ⅰ」の久恒治助で述べたように、福岡工業高等学校歴史資料館に収蔵されている「物故者真影帳」にも収められている。明治40年(1907)に学校とときの同窓会、福岡県立工業学校校友会(現福岡工業工友会)は明治29年(1896)の学校創立以来、物故した職員と卒業生の慰霊のため追弔会を開催した。以後戦前までは毎年博多の古刹である聖福寺などで9月中旬の恒例の行事として前年までの物故者を中心として行われ、正面に設けられた祭壇に遺族から提供された遺影を掲げて故人を偲び追善の供養が捧げられた。残された遺影は整理のうえ大正15 年(1926)に「物故者真影帳」となし福岡工業工友会が保存して伝えている。
 明治36年(1903)に大阪で開催され初代校長杉本源吾も審査官を務めた第5回内国勧業博覧会※ 1で、12の外国商館が公開した最新の自動車に数多の人々が眼を見張り関心を示して以来、その輸入販売や修理そして製作を試みるという日本の自動車黎明期を経て、明治末期には自動車製造会社の誕生を促し大正となり、組織的な生産の段階へと進んでいった。つまり日本の自動車工業の確立期を迎えることになる。このような時期に自動車技術に強い関心を持ち、既に自動車工業国となっていた米国に留学後は東京瓦斯電の工場長として自動車の開発に傾注した。試作から生産と実運用に至るまで心血を注ぎ、遂には「猛将毛利輝雄工場長」と称され「自動車のために一生を捧げた※ 2」、また星子勇に「自動車部中興の恩人」と言わしめ、瓦斯電工場長として取組んだ自動車生産の結実が、日本自動車工業確立の成果の幕のこれから開こうとする日本自動車工業の舞台から卒然として去って行った。

「故毛利輝雄氏を語る」の表紙

5大連での同窓

 この時期、大連で活躍していた岩崎の同窓生の主な人物をあげると、

永吉喜十郎(明治36年卒/三池郡)
 三池土木株式会社を経て満鉄入社、満鉄地方部建築課勤務で大連市伏見台居住。

古賀精敏(明治37年卒/糸島郡)
 明治42年満鉄入社、大正6年に大連市伏見台に古賀建築事務所を開設する。

有吉大蔵(明治40年卒/大分県)
 卒業後佐賀県庁勤務の後、熊本高等工業学校土木科を卒業して満鉄に入社、大正6年(1917)満州四平街四鄭鉄絽局勤務、大正15年(1926)洋行の後昭和3年(1928)1月18日京城にて逝去する。

神田勇(明治40 年卒/大分)
 明治40年(1907)、太田毅のもとで横浜正金銀行大連支店建設に従事、明治43年に満鉄に入社する。大正13年(1924)満鉄地方部大連工務出張所、昭和6 年(1931)満鉄本社計画課に勤務する。

4渡鮮と中村建築事務所

岩崎(勝本)宇一(明治35 年建築科卒)

 明治41年(1908)に福岡工業学校建築科を卒業すると、実務練習で勤務した福岡医科大学構内に設けられた文部省建築課福岡出張所に雇として勤務することになった。3年後の同43年に朝鮮在住の友人細江為太郎※ 12の勧めにより渡鮮、細江が技手として勤務している朝鮮総督府度支(たくし)部税関工事課の釜山出張所※13に勤務する。
 明治45年(1912)、朝鮮銀行を竣工させた中村與資平は、朝鮮京城で建築事務所を開設するにあたり新しく人材を求め、これに応じた岩崎徳松は入所後京城蓬莱町4 丁目※ 14の中村の自宅に寄留した。
 岩崎徳松の中村建築事務所への入所の経緯についての考察は後述することにするが大正3年(1914)、中村建築事務所は朝鮮銀行大阪支店の新築工事設計を引き受け工事監理を辰野片岡事務所に依頼した。岩崎徳松は、中村與資平の代理人として内地にもどり大阪府下天王寺阿倍野351※ 15に居を構えてこの工事にあたった。このとき辰野片岡事務所には、同窓の徳永庸、田原政見はじめ、いずれも「列伝Ⅰ」で述べた先輩の吉木久吉(明治33年卒)、永野房吉(明治37年卒)が勤務していたので、岩崎徳松は4名の同窓生とともに久し振りの同じ分野である建築談義や同窓の懐旧談と内地日本の情緒を味わった。特に前章で述べた徳永の妻・安喜が「…福工時代の親友が高木亀三郎様と岩崎徳松様でした」とその手記「想い出すがままに」に述べていることからも、このときの両者の思いはひとしおであったであろう。
 大正4年(1915)に朝鮮銀行大阪支店の工事が完了すると再び渡鮮して、翌
5 年に結婚して松原かね子を妻とした※ 16。

大連出張所

 中村建築事務所は大正6年(1917)、関東州(現中国東北部)遼東半島の南端
に位置する大連に建設計画された朝鮮銀行大連支店の新築設計監理のため、大連市山形通に同建築事務所大連出張所を開設した。岩崎徳松は中村與資平の代理人として赴任し大連愛宕町10に居を構えた。京城の事務所が設計監理を主としたが大連出張所はこれに加えて工事部も設けられていた。
 このとき岩崎の後輩となる大分県出身の柳本貞記(大正6年卒)が卒業して大連出張所に入所して勤務したが大連支店竣工早ゝに内地に戻っている。同8年、久留弘文※ 17が事務所に入所して大連出張所主任となり、次いで宗像主一※ 18が入所する。

朝鮮銀行大連支店

 大正9年(1920)に、京城の事務所は多くの受注をかかえるようになったので、岩崎徳松は大連を離れて京城の事務所に戻り、大連出張所の所長に久留弘文が充てられていた。
 大正10年(1921)3月より、中村與資平は所員のフェラーを同伴して欧米旅行に出発し翌11年2月に帰国する。この間岩崎徳松は、所長の中村與資平にかわって、京城の事務所一切の業務を負担して「熱心事に従ひ、毫も中村事務所の声価を辱しめず、依然として朝鮮建築界に重きを為していた」と追悼されるほど中村の負託に応えた。
 また大正11年(1922)2月、中村は朝鮮に戻った2 ヶ月後には建築事務所の主力を東京に移すべく東京溜池に工務所を、居宅として高円寺に移転して京城の事務所は岩崎に任せられることになった。
 このころ、岩崎は朝鮮建築会の発足計画に従い、発起総会の準備や役員に選ばれたあとは発会式、発会記念講演会、祝賀晩餐会の準備に向けて忙殺されている最中に事務所の主である中村與資平の内地東京への移転が重なることになった。 
 それは今後直ぐに直面する、自分の全責任で立ち行かせなければならない事務所経営への展望と戦略、目前の朝鮮建築会の運営へのかかわり、そして編集委員として機関誌「朝鮮と建築」の創刊へ向けての企画と創刊号の編集等など、まさに「夜を日に次ぐ」ごとく、また「徹宵事務を見る事月余に及ぶ」という事態が襲いかかり岩崎の脳漿と身体は極限まで搾られ知力はもとより体力を酷使したであろう。このように緊迫した所にも、或いは所にこそ緊張の隙間に忍び寄るものがあった。大正12年(1923)の春、それは宿痾となって岩崎徳松の身体を蝕んだ。