3実務練習と文部省建築課 福岡出張所

 前章の徳永庸で述べたように、岩崎徳松が3学年となった明治39年(1906)6月から、「各科4学年生徒ヲ実務練習ノ為メ各工場炭山等ニ配布ス」として官庁官衙はじめ各企業現場で「特修」として現業実習を行うことになっていた。
 現在のところ各人が実務練習で配置された官庁、企業の直接の記録は見出せいないが、建築学会誌「建築雑誌」の「本会記事」の欄に紹介者名と入会日、その時の勤務先或いは宿所などが掲載されている。これにより岩崎徳松の場合は、このとき入会が卒業前年の明治40年(1907)の4年生の11月であることから、実務練習中の准員入会であることがわかる。
 岩崎は、自宅の筑紫郡千代村大字千代町1076から近い京都帝国大学福岡医科大学(現九州大学医学部)構内に設けられた文部大臣官房建築課福岡出張所(文部省建築課出張所)で1年間の実務練習をすることになった。これは、卒業後の進路について建築の更なる勉学の希望もあり、それには実務練習を東京で行えば次の展開の機会も開けることなども考えたかもしれない。しかしながら母ひとりを残して家を出ることについての考慮があったのではないだろうか。前章の「徳永庸伝」で述べているように、判明している限り実務練習で東京に赴いたのは、徳永庸等3 名であった。
 このときの大学構内の出張所事務所は、現在とほぼ同位置にある正門から北西に伸びている構内基幹道路を100メートルほど進んだ道路左手に建っていた。
 福岡医科大学は、明治36年(1903)に京都帝国大学の分科大学として創設されたもので、施設は明治29年(1896)に福岡県立病院が福岡市東中洲から北東方1.7kmの筑紫郡千代村(現東区馬出)に新築移転して、それが福岡医科大学に移管されたものであった。ちなみに、この東中洲の県立病院跡は創立早ゝの福岡工業学校として使用された。
 大学構内には、ほとんどの建物が文部省直営事業として岩崎組が工事を担当し 医学部事務室や病理学はじめ各科教室の建設が開始された。明治40年(1907)11月に新築された外科・内科、眼科・産婦人科の各診察棟の建設に続いて同41年には独立棟の図書閲覧室や同43年に精神病学教室群の建設がこれに続いていた。このときには既に、岩崎徳松の先輩となる勝本(後岩崎)宇一(明治35年建築科卒)が就職して福岡医科大学の建設当初から関わっていて、両名はこれらの建設に従事した。

岩崎(勝本)宇一(明治35 年建築科卒)

 明治9年(1876)7月、福岡県築上郡岩屋村大河内243(現豊前市大河内)に生まれる。岩屋尋常小学校を経て、明治32年4月福岡工業学校木工科(後建築科)に入学して宿所を福岡市大円寺町永沼準方に寄留した。同35年(1902)に卒業して、京都帝国大学福岡医科大学の各施設の建設が始まり、大学構内に設けられた文部省総務局建築課雇員として、同省建築課福岡出張所に勤務する。このときの上司であり文部省建築課技師であった矢島一雄の紹介により明治36年(1903)10月に建築学会准員となっている。

福岡医科大学診察室新築建図

 その後、当工事と施工を担当した岩崎組に入り明治37年に宿所を博多対馬小路(現博多区対馬小路)にあった岩崎元次郎宅※ 5に寄宿している。明治39年に、勝本は逓信省の韓国京城の統監府※ 6通信管理局官舎、倉庫及びその他新築工事の施工を請負った岩崎組出張所に勤務し、工事は明治38年12月起工して翌39年12月に竣工している。このころ勝本は、岩崎組の第2代岩崎庄三郎の次女チカ※ 7と結婚して岩崎姓を名乗り、庄太郎と義兄弟となっている。さらに同42年には陸軍省の依頼で台湾基隆の基隆憲兵分遣所新築工事のため基隆哨船街に設営された岩崎出張所に異動して工事に従事した。工事は、鉄筋煉瓦その他木造2階及び平屋建で明治43年(1910)9月起工、同44年5月に竣工している。

建築学会会員

岩崎徳松は4年生の実務練習中の明治40年(1907)11月に、上司の文部省福岡出張所技師・矢島一雄※ 8の紹介により、同僚の福岡市中小路24を宿所としていた細江圓次郎※ 9とともに建築学会准員となっている。この時同時に、先輩の城戸新太郎(明治37年卒)は松室重光が、同期の宮脇喜右衛門は山下啓次郎が紹介者となり准員となっている。この時期、矢島は文部省建築課福岡出張所の責任者として本省から出張って勤務していた七等十二級従七位の文部省技師で、福岡医科大学施設新築の采配を振るっていた。
 また後に、入所して短い生涯を捧げることになる中村建築事務所に在勤中の大正9年(1920)7月、中村與資平と中村の大学同期の田村鎮※ 10(陸軍省経理局技師)と他1名が紹介者となり正員へと転格している。
 ちなみに、先輩の久恒治助が大正5年(1916)に正員に転格するときには辰野金吾はじめ多くの紹介者のなかに、かつて辰野葛西事務所で久恒と同僚であった中村與資平も名を列ねている。
 またこのときに、岩崎の先輩の野村梅次郎(明治36年卒)も台湾総督府民生部勤務のとき薬師寺主計※ 11と佐藤茂助外2名の紹介により正員となっている。
 建築学会正員となった岩崎は、新入会員の紹介者となることができたので、早速いずれも事務所の所員となったと思われる人物3名について、大正10年(1921)6月に川野義彦、9月早水旭を、次いで同11年1月古賀新吉を紹介者として准員に入会させている。

2福岡工業学校

 岩崎徳松は、明治22年(1889)10月26日福岡県筑紫郡千代村堅糟(現福岡市博多区堅粕)に父・徳兵衛、母・たつ子の一子として生まれる。千代尋常小学校4年に次いで福岡高等小学校4年を卒業して、14歳7 ヶ月となる明治37年(1904)4月18日、福岡工業学校建築科を受験して合格者29名の首席で入学する。
 工業学校の入学資格は、4 ヶ年修業高等小学校卒業または中学校2年級修業を標準とし、年齢は満14歳年以上満25歳以下であった。この年の建築科の最小年齢は14歳1 ヶ月、最高齢は20歳11 ヶ月で、平均年齢は16歳5 ヶ月、染織、建築、機械、採鉱4科の最高年齢は22歳2 ヶ月であった。
 当時の建築科の専門教科課程、週当たりの時数は、次のようであった。

 この他に、共通専門科目として「工業簿記」「工業経済」各1で、普通科目は、修身、国語漢文、数学、物理学、化学、英語、体操があり建築製図は実習に含まれているが、他科3科は独立科目として機械製図が設けられている。実修内容は、
 1学年:工具練習、仕口、継手、指物、建具
 2学年:寄木、挽物、木地、建築、建築製図
 3学年:彫刻、建築、建築製図、意匠測量
 講義方法は、普通課目については殆んど教科書を用い、他は口述筆記によるものであった。但し、建築学については工学博士・中村達太郎の「建築学階梯」が使用されている。

1はじめに

岩崎 徳松

 冒頭の写真は、建築学会(現日本建築学会)誌「建築雑誌※ 1」の巻頭に掲載された岩崎徳松の遺影である。岩崎は明治44年(1911)、当時日本国の統治※ 2のもとにあったに朝鮮に渡り、朝鮮総督府税関工事部の勤務についた。その後京城(現ソウル)で、辰野金吾の教え子で辰野葛西事務所に勤務していた中村與資平が開設した中村建築事務所に入所して、多くの建物の設計建設に従事し、また朝鮮建築界の学術団体として啓蒙的役割を果す「朝鮮建築会」の設立に深く関わり活躍した。この遺影は、82mm×60mmの写真を幅4mmの黒枠で囲みページの中心に配置して、その右側には明朝体で「故正員 岩崎徳松君」、左側に毛筆で書かれた自筆書名の「岩崎」の文字が遺影左下に懸かる様に添えられている。この遺影から伝わってくるものは、豊かな髪は左七三に綺麗に分けられ、やや楕円形の細身の眼鏡、切れ長の眼の奥からこちらを見つめる聡明な瞳、程よく引締まった面立ち、ラウンドカラーのシャツにセミピークドラペルのスーツで包む知的で洗練された容姿はしかし、あくまでも控えめである。この風貌は後に述べる、協同者であり師でもあった中村與資平のそれを彷彿と示しているほどに、両者は肝胆相照らした存在であったと思えてならない。
 しかしながら、活動の地が内地に比し寒気厳しきなかで夜を日に次ぐ寧日遑(いとま)なき激務に、宿痾の忍び寄るところとなり建築家として大輪の開花途上、彼の地において空しくなった。没後に「…中村工学士とは、一面師弟の関係最も麗はしく、他面同学士の片腕となり、欠く可らざる協力者」と追悼された、前途多望の早世の建築家であった。
 それから61年の星霜を経た昭和60年(1985)2月、西澤泰彦※ 3により岩崎徳松が正員でもあった建築学会の建築学会論文報告※ 4を初めとして、中村與資平に光を当ててものされた論考著作の中で触れられた一人が岩崎徳松であった。以後本稿は、これらの先考の援用を得て進めることとする。
 これにより岩崎徳松は、日本の近代建築史における西澤が言うところの「海を渡った日本の建築家」の一人として、工業学校を出たささやかな存在であるとはいえ歴史上の人物となった。

岩崎徳松自筆署名

12残された漢詩・和歌

 上野壯吉は、明治34年(1901)の同窓会会報の創刊から関わり、編集は主に荒木廣※ 75と上野が担当し、大正以降昭和6年までは上野が担当した。機会あるごとに時に応じた感慨や会員の転任、逝去などに対して漢詩や和歌を詠み会報のみならず学友会誌「濤聲」にも寄稿している。以下は藤川文庫に残された多くの会報・会誌から集めたものである。

明治39 年(1906)
 本校の10周年を祝いて
  この道の光はいよいよます鏡 ますますみかけくもりなきまで
 人の榮轉を祝いて
  ひそみゐし淵をも今は立ちいでて 雲井の上に名をやたつらむ
  ひそむべきふちならずとて思いたつ 君をとどめむすべぞなきかな
 落合深見両先生を送りて
  行く人も送るも袖の浦波の よするなきさの打しめりつつ
  火車の烟の末は消えぬとも きえにぬはけふの思ひなりけり
 新年言志
  とし立ちて人はふりゆくものなるを 若かえりきとなどやいふらむ
  新年川 
  璞玉(あらたま)のとしの光の見ゆるかな 鴨緑江(ありなりかは)も波たゝずして
  梅はまたさまこそいでね年わはや たつたの川のなみの初花
 亡父の忌日にあたりて
 七年は夢と過して悲しくも たむけまつらむことの葉もなし
 はらたゝばあすいかれよとのたまひし 昔こひしき父のうつしゑ

迭久芳※ 7某君榮轉
 橋頭今日唱陽關  何用離憂楚地顔
 才子至邊春亦至  風光長在藝州山
臨別輿久芳君
 擧世知君只至誠  多年教育實躬行
 日東從是當多事  願以斯文築鐵城
(濤声・第2 号明治39 年5 月13 日)

明治45 年(1912)
 特別大演習※ 77拝観日記の一節

 大元帥陛下の続率し給ふ大演習を我も拝観せばやと十四日朝まだきより潮の如き人波の中をとかくして荒木村※ 78のとある小高き岡の下に着きぬ。岡の上には北軍なる砲兵の陣地ありて続けさまに打ち出す砲声凄ましく、そが前に陣したる歩兵の聯隊は満を持して未だ一弾をも放たずいと気色ばみてぞ見ゆ。折柄の警蹕にて錦の御旗旭に輝き鳳輦徐ろに進ませ給ふ一同畏みて道傍に拝しまつりぬ。
 大砲のとよむ曠野にかしこくも 行幸をろかむけふそうれしき
 朝日子は菊の御旗に輝きて  着めき渡る神無月かな

天皇西狩閲邊城 十萬貌貅抽懿誠 勤隊行軍何快速 疾風捲地剣霜清

疾風捲地剣霜清 馳突縦横奇又正 砲響如雷烟似霧 硝雲深慮拜鑾旌

硝雲深慮拜鑾旌 欽躍海西幾億氓 一碧秋高千歳澳 天皇西狩閲邊城

連日の演習に足や傷めけん兵士の跛して負けじ劣らじと軍務にいそしむを見て
 皇國に誠をつくす健夫(ますらお)が 身を忘れても練る軍かな
露営の跡にて
 銃とりて打ちつかれたる兵士が  夜半にいかなる夢やむすひし
 月寒く雁なく夜半に武士が    取りかこみたるかゞり火のあと
 露ふかき草のふすまに太刀枕   一夜をいかに打ちあかしけん
御野所の跡を拝して
 御軍の駒のたてかみふりはへて  いともかしこき鳳輦のあと
(濤声・第13 号明治45年)

大正元年
 明治四十五年春為修學旅行 於鹿児島旅次雑観
 東肥暁色
 疎烟喬樹曙光催 四面青巒図書開 最喜蒼茫滄海外 温泉山出暁雲来 矢
 嶽山上即事
 青鞋踏破萬重雲 呈翠千出曙色分 奇勝誰知矢嶽最 満眸詩趣絶俗氛
城山懐古
 凶當飜旗丁丑年 當時殺気晴江天 悲風落日人安在 唯見城山一片烟 
吊西郷南州戦死之地
 黄鶴高飛遂不還 生前偉業付狂瀾 英雄末路真堪憫 埋骨城山草棘間
下玖摩川
 岩頭水激浪排空 軽舸随流逐疾風 両岸青山青末了 己過十里急湍中
(涛声・第14 号大正元年8 月)

大正2 年(1913)
 校長藤川先生選奬記念品贈呈式席上賦連珠體三首并一絶以呈
 校庭有藤樹、碗碗蜒敷十歩、叉先生室傍、植敷株竹、猪猗々蔽窓、清趣可
 掬、詩中故及
  斐然君子徳成章 教化多年及四郷 弟子三千仰高徳 蒼々藤樹是甘棠
  蒼々藤樹是甘棠 芝竹窓前皆帯香 恩來優々豈莫故 日東斯界頼君昌
  日東斯界頼君昌 教育功成徳益揚 和煦満堂桃李暖 斐然君子徳成章
  叉
  教而不倦發郡蒙 皆識育英有偉功 鴻澤霑來恩賚渥 一門桃李帶春風
  叉
 藤川校長の光榮を祝い奉る
  天そゝる高根の雲のとけそめて  すみまさり行くふし川の水
  天地もとよむばかりにいはゝまし  心つくしの君かいさをし
  一入に其香尊し梅の花
  紅梅の一際目立つ小松原
  長閑さに弟子召南を誦しけり
(濤聲・第15号大正2年3月11日)

藤川先生選奨記念漢詩

寄白水将軍
本年一月三日賽箱崎八幡宮、偶逢白水陸軍少将将上滊車、
即序久濶別、余曾興将軍共書窓論鞱略者、不相見巳三十年也、賦三絶以贈
 三十年來邂逅奇 情濃不省犯威儀 依然古態君休咎 不見将軍見舊知
 一脱戎衣氣尚雄 育英今日致微衷 不知發憤老将至 魎巷拳々教學童
 榮塁高臨紫水流 前山遠望溝韓州 知君颯爽雄風壮 日凭勝城第一楼
悼女操子※ 79二首
操子余第三女也、手生好學、不幸罹颪羸病、連歳悉治方、而日夕不放翰墨
即使學秦箏、毎暇命奏一曲欣然相樂、壬子孟冬怱焉没、年十有四、賦以遣

 流水落花空断膓 芳魂去在自雲郷 除音在耳須磨曲 幾向幽窓遣鬱情


 仏檠明滅坐深更 手把遺篇晴涙傾 十有四年眞一夢 寒風凍雨途愁声


送田原※ 80君榮転席上賦以
 雨霽階前花正開 祖筵催酔気悠哉 雄心寧説別離意 馥郁清香入坐来


送深水好雄※ 81君榮転於朝鮮平壌高等普通學校※ 82
 丈夫成事必期成 何説区々離別惰 皇澤未霑高麗地 願将斯道化民生
(濤聲・第16号大正2年8月1日)

大正3 年(1914)
峰松
 天皇の千代をことほく声すなり  あらつの峰のみてうえのまつ
 常盤山みねの松風おと清く こゝろのちりも吹き払ふらむ
浦松風
 打ちよする浪は汐干に音たへて ふくとしもなき浦のまつかせひ
 朝夕に松の嵐を友として うきよもしらし須磨のうら人
社頭杉
 世の中の人の心もかゝれとや すなほにたてる神かきの杉
 千早振神の心やしめすらむ みかきの杉のすくやかにして
(濤聲・第17 号大正3 年2月)

大正5 年(1916)
 奉祝 天皇陛下御登極大典※ 83
  惟聖惟神祖訓彰 天孫一系鎭無彊 紫宸殿上千秋典 瑞鳳來儀麟致祥
  瑞鳳來儀麟致祥 十風五雨穀穣々 大嘗親祭衣冠粛 錦纛翻風菊発香
  錦纛翻風菊発香 霊山巍峨國威揚 日東亦子七千萬 鼓腹謳歌喜欲狂
  鼓腹謳歌喜欲狂 洋々□樂粛蒸嘗 普天率土彫皇澤 萬國使臣献賀章
  萬國使臣献賀章 八蟹引領望恩光 允文允武世相繼 惟聖惟神祖訓彰
□は、皮偏に薘
(「三友」校友会報・第38号、濤聲・第21号、小倉工・工華第15号の合併号大正5 年1 月31 日)

大正6 年
 書懐七首※ 84
  鶴城遥対立花峯 北望玄洋浪拍天 占得水光山色美 彩雲蓋処是朝鮮
  魏然高閣叱天□ 即是當年一小黌 杉本先生眞闇達 排除万難好経営
  洋々絃誦圧東瀛 夙騁名聲有定評 五要綱観眞本領 金瑤文字悉鏗々
  廿載門焙震細胴 満庭桃季発芬芳 藤川教鐸亦聰睿 薫化諄々徳作章
  出門弟子一千人 散在天涯率士濱 己以技工資國富 叉観砌磋學才伸
  済々多士讃称闐 維石巌々校楚堅 鸞鳳呈祥儀典粛 綿々校運萬斯年
  曾期報效守愚哀 十有八年寄此躬 今我瓦全逢盛典 追懐既往感無窮
  鶴城遥かに立花の峯に対す 北に玄洋の浪の天を打つを望み
  水光山色の美を占得す 彩雲蓋くる処是れ朝鮮
  魏然たる高閣天□(てんおう)を叱(しっ)す 即ち当年は
  一小黌(しょうこう)なり
  杉本先生真に闊達なり 万難を排除して好く経営す
 □は、風偏に黄 (三ヶ島正人書き下し文)
(「卒業生一千人記念誌」大正6 年7 月15 日)

大正7 年
 列荒木先生※ 85田中先生芝辻先生勤績満十周年紀念祝賀式即謹賦
 温故知新學日新 啓蒙不倦一諄々 十年培養李桃樹 贏得清香萬朶春

某生身体魁偉不覇不拘細事其在我校好爲庭球野球之戯叉時驅短艇於玄洋蔽
衣乱髪自以爲快當時養病在英彦山麓就僧某學佛遺悶云

 破帽蔽衣不顧身 野球弄去叉漕□ 養痾今日心機転 変作彦山修道人
 □は、舟偏に侖の字
似卒業生
 一心修學四春秋 切瑳功成志始酬 不許悠々消歳月 勿忘君子百年憂
又   
 蛍雪功成衣錦回 校庭春暖氣悠哉 鷗雛習々纔生翼 願向青雲一蹴来
又   
 世局新陳若水流 優存劣滅亙恩讎 不容姑息倫安事 大勢驅人曾不休
送渡米之人     
 二月江楼送遠征 高歌漫飲大瀛傾 鷗程一萬三千里 明日孤帆蹴浪行
又 
 休道陽関離別難 米山歐水足遊観 他日予識歓迎日 衣錦帰郷刮目看
(「参友」濤聲24号・校友会誌45号大正7年3月10日)

大正11 年(1922)
 詅痴稿
  大正壬戊春日送波多江令繁生榮転
  江楼張宴唱陽関  何用離憂杯酒間 夫子至辺春亦至  韶光迎在日隈山
送本会幹事上原武友氏之天津
 高楼呼酒送同人 明月清風入座新 不語離愁談碩画 雄心落々向天津
(県立工業学校校友会福岡支会会報大正11年9月39日)

昭和4 年(1929)
 奉祝御即位大典 
  催聖惟神祖訓彰 天孫一系鎭無彊 紫震殿上千秩典 瑞鳳來儀麟致祥
  瑞鳳來儀麟致祥 十風五雨穀穣々 大嘗親祭衣冠粛 錦纛翻風菊発香
  錦纛翻風菊発香 靈山魏峨國威揚 日東赤子七千萬 額手瞻仰喜欲狂
  額手瞻仰喜欲狂 景雲爤々卒安郷 普天率土周皇澤 万國使臣献賀章
  万國使臣献賀章 八蠻引領望恩光 允文允武世相繼 催聖惟神祖訓彰
(濤聲35 号昭和4 年2 月15 日)

昭和5 年(1930)
 新年は気がのびのびする。七三飾(しちめかざり)はしてある、去年の煤は払い清めてある。起きると直ぐ若水で、顔洗い口すすぎ、先ず天神地祗を拝して、皇室の無窮を祈り。祖先に拝礼して後、一家打ち揃うて、屠蘇三行、陶然として雑煮を祝う心よさ。
 筆硯無恙入佳辰 鬚髪加霜気尚新 柏酒三行歎不極 梅花笑処賦王春
(福工時報第29 号昭和5 年1月1 日付け編集余禄)
荒木先生の逝去を悼む
 世をまかる齢ならぬに君そをし 百年までは よしまさるとも
 いとし児の生ひさきも見すいかなれば 心みちかく 君は逝きけむ
旅中君の訃を聞きて
 草枕 かへらぬ君をしのぶれば 袖に涙の露そこほるゝ
(濤聲36 号昭和5 年2 月25 日)

昭和6 年(1931)
 漢詩に曰く
  楽夫天命復奚疑 三十余年守吾癡 満月風光春己老 感深疲薾辭枝時
 歌に曰く
  あすも逢う身にしあれども別れてふ 名にぞ名残りの 惜しまれにける
(福陵工業新聞昭和6 年5 月20日)

昭和10 年(1935)
 紅葉見て 初雪賞す不老窟
 強いられて よはひのへたり菊の酒
(福陵工業新聞昭和10 年12月26 日)

昭和11 年(1936)
御題
 のる船の行手の山とみしものを 海原遠くかすむ雲の峰
 初日いつる海のかなたあきらけく 色とりゞの雲そうかへる
(福陵工業新聞 昭和11 年1 月1日紙上賀状)

昭和12 年(1937)
 会員加藤正巳君※86の逝去を悼みて加藤君の霊前に手向け奉る
  さきいでゝかおりあまねき春ながら  なにをうしとて花のちりけん
  さけばちる 花と開きしかまのあたり きみかうへとは思わさりしを
 奉悼加藤正巳氏逝去
  流水落下不耐情 芳魂巳去白雲城 遺篇在手巻還展 細雨悲風送悼聲
(福陵工業新聞 昭和12 年3 月20 日)

昭和13 年(1938)絶筆
 明けそむる神の御にはに老そけも 御軍人の幸祈るなり
(福陵工業新聞昭和13年1月1日)

年代不詳
 大君のみことかしこみ玉鋒の  道のまにまに身をつくしけん
 國を思う矢竹心の一筋に 仇をほふりて失せし君おや
 國のためすつるいのちも同しくは かちときあげて帰れ武夫
 日の本に刃向ふ仇は日の光 及ぶ限り打ちこらし来よ
注: 署名は、明治45年は江陽漁夫、大正5年は教諭・上野壯吉 謹賦、昭和4年は上野江陽 謹賦、昭和12年の東京 上野壯吉、以外は特別会員 上野紅陽となっている。仮名遣いや濁点の有無は原文のままである。

上野壯吉の印影
 藤川文庫には、上野壯吉が揮毫した墨蹟が残っている。ほとんど校長藤川勝丸の授賞祝賀や歓送の際に謹呈したものである。このうちの二幅は絹本で、これには落款印が作法に従って右上には「知新」の朱文の引首印、左下には白文で「上野尚義」の姓名印とその下に朱文の「江陽」と雅号印の印影がある。「知新」は、「温故知新」から引いたものであろうか、そして維新明治や文明開化の激動の変化を見てきた実感からくるものであろうか、私は上野壯吉の常に学ぶという精神の旺盛を感じ取ったのだった。

上野壯吉の落款(1)
上野壯吉の落款(2)

11絶筆と終焉

 上野壯吉は、退職後の昭和8年から福陵工業新聞紙上に年賀状を掲載しているが、昭和13年(1938)1月1日付けの福陵工業新聞には第6面から16面にかけて、教師や卒業生が個人または連名で新年の挨拶を掲載しているなか、第8 面に上野壯吉の賀状がある。
 それによると
「戦勝の新年を御祝申します 昭和十三年 元旦 東京小石川区関口水道町二一 上野壯吉」として添えられた一句「明けそむる神の御にはに老そけも 御軍人の幸祈るなり」
 が掲載されたが、職員と校友会員は8ヶ月後にこれが上野壯吉の絶筆であることを知ることになった。
 昭和13年(1938)8月22日、家族一同の手厚い看護も空しく午後3時、76歳を天寿として受け入れ、明治31年に赴任以来昭和6年3月にいたる33年間の福岡工業学校教師として、そしてその後も同窓会報に音信を寄せ続けていたが、ついにその生涯を閉じ伝説の歴史が始まった。

絶筆となった紙上年賀状
(昭和13 年元旦)

伝説の始まり

 上野壮吉の逝去3 ヶ月後の11月25日付けの同窓会報「福陵工業新聞」でその訃報を次のように報じて伝説の人の1 ページが始まっている。
「厳父の如く何の遠慮容赦も無く叱り飛ばすかと思えば又時に慈母の如く
諄々として教えて倦まず一度(ひとたび)先生の謦咳に接して誰か其情の深きこと篤きことを感ぜざるものがあったろうか」と。
 また、工友会が故人の逝去前後様子を子息の漸に尋ねたその返書によると、
「…退職後は静かに余生を楽しむという風情で平常家族には『奉公』と『人の為に尽す』と諭すことを日常のモットーとしていた。町内より出征せられた家があれば一軒ずつ訪問して慰め激励したり、また戦死せられたるところや出征する人たちには殊に慰問なり激励の心を篤くした。その方達に贈った歌として5 首を挙げているうちの1 つは※ 74、

武夫(もののふ)の心の胸にむち打ちて かしま立ちする君を送らん

 また父は子供好きで孫はもとより近所の子供もよくなついていて、髭だらけの怖いような顔でも『お爺ちゃん』と子供が父を相手に遊びに来るほどで、子達には絵や字を教えていかにも自然なふるまいであった。病臥の期間は80日くらいであったが、あるとき「楠公の教詞を暗記しよった」といいそれは「忠孝」で「親には孝行君には忠義、これを忠孝という」と諭した。最後の2日あまりは黙っていたので何故かと尋ねると、『丁度啞が鰻のんだようにむしだまっとるネー』と云って一同を笑わせたのが最後の諧謔となり眠るような往生であった」と伝えている。

10信仰の道へ

修業のはじめ

 退職した上野壯吉は、大正7年(1918)の孫の重篤の病気を脱する出来事はじめ、近親縁者に降りかかる災難に出会い、思うところあり天理教の教えの道に入り※ 73奈良県山辺郡(現天理市)丹波市町天理教敷島大教会詰所に滞在して斯道の修業に励むことになった。天理教校別科生として半年間の教義研修を受けている。

上京

 修業を終えて一旦帰郷した上野は、東京市小石川区小日向台町に在住の長女宅に居を構えて布教活動をはじめ、同12年には同区関口水道町へ転居して「日々破履を叱咤して」布教に専心務めていると校友会に伝えている。