9校友会(後工友会)会報の編集

 第3回卒業生を送り出した明治34年(1901)に、福岡工業学校同窓会が発足し、会員に対し学校の現状と会員の動静を知らせるのを目的として、上野壯吉が中心となって「報告書」と称する表裏2枚刷り蒟蒻版の印刷物を配布したのが会誌の濫觴となる。
 明治35年(1902)に、小倉、久留米の各分校が独立するにあたり同窓会を改めて三校連合の校友会を組織して同年12月に、「校友会会誌」第1号を発刊した。年3回の発行で6年の19号に続き、明治42年6月をもって「校友会月報」第1号とした。さらに福岡校においては、明治38年(1905)12月に学友会が「濤聲」第1号を発行し、同43年(1910)「校友会月報」は改題して「月刊工業」第1号となり、同44年7月14号以後は隔月発行となった。大正4年(1915)発行の35号にいたり、会誌は「校友会会誌」と改題した※ 71。
 上野はこのように題号の改題を経ながら長い歴史を持つ会報の編集に、創刊から昭和6年(1931)5月20日発行の「福工時報」第39号まで編集長を務めた。
 以後は上野の後任として昭和6年4月6日に国語・漢文を担当として高木正蔵※ 72が着任して、会報の編集も引き継いでいる。高木は大正9年(1920)、建築科4年のとき病気により中退し、療養完治後大学入試準備に取り組み、昭和2年4月九州帝国大学法文学部に入学、同5年10月学士試験合格し卒業している。担当学科はもとより校友会誌の編集担当としても最適の後任となった。

上野壯吉最終編集の会報題号
(昭和6 年5月20日

8寿像贈呈と慰労金の贈与

 上野壯吉の退職を機会に、これまで学校への長年の貢献と同窓会に対する援助、取分け同窓会設立の努力と会誌編集に大いなる尽力があったので、福岡工業校友会はこれに感謝し恩師の姿を留め記念するために胸像を製作して贈ることとなった。昭和6年(1931)2月11日の紀元節拝賀式後に、志村良光、藤川勝丸の現旧校長出席のなか、学校講堂において上野先生謝恩寿像並慰労金贈呈式が行われた。野田俊郎校友会理事長の感謝の辞に続いて、上野
壯吉は妻のフジと長男の漸(いたる)を伴って前に進み出て志村校長より寿像並びに謝恩慰労金目録を受け取った。一同は、いつもの如く謙譲に満ちた口調で述べる上野の答辞を聞きながら、職を退いた上野に対し学校時代とは違った親しみを感じた。また共に30年間を務めた藤川元校長は、何故にかく生徒・卒業生が慈父の如く敬慕するのかといえば、畢竟老先生は徳の人なることを種々の例を引いて称えた。

上野壯吉寿像贈呈式

7四先生告別式と惜別会

 昭和6年(1931)3月を最後に、今泉、石橋、上野、吉田※ 69の4名の職員が退職をし、新学期となった昭和6年4月7日、学校講堂において4名の告別式が行われた。
 これを受けて校友会福岡支部主催により博多商工会議所3階において86名の参加のもと惜別会が催された。理事岡部繁の開会の辞にはじまり、野田俊郎理事長の感謝の辞、校長藤川勝丸会長の挨拶に応えて、上野壯吉が主賓を代表して声涙ともに下る答辞を述べ一同等しく恩師の徳を思い惜別の情頻りであった。宴にはいると卒業生は先を争って、指揮刀で叩かれたこと、割鐘のような声で怒鳴られたこと、物理の試験でしごかれたこと等々旧談を述べた。興を覚えた上野壯吉は、漢詩と和歌を詠じて※ 70応え一同恩師の健康を祝して宴は閉じられた。
 この後、70歳の高齢で退職した上野壯吉の老後の一助になればと、野田俊郎校友会理事長が上野先生謝恩発起人一同代表となって、校友会誌上に醵金募集の案内を掲載した。

四先生惜別会の様子

6ほほ笑ましい風景

 上野壯吉について述べられている逸話のひとつが、当時青年教師であった浅上義貞元教諭によって残された回想談がある。「…上野先生についても思い出すことは数々ありますが…先生の主義であり性格の現われのひとつであると思う出来事がありました。それは大正10年(1921)前後のまだ所謂兵式体操と云うのを担当して居られた頃の或日、生徒は背嚢を背に武装し、先生は腰に指揮刀を帯びいかめしい兵式教練の授業時間中の事で、たしか横隊行進の練習中であった。列中の誰かが何か不都合なことがあったと見えて、先生大喝一声してその背後から指揮刀を以て背嚢の上をピシャリやられたが、刀が少し曲った事にも気付かず抜刀のまま授業を続けられた。時間が終って刀を鞘に収めようとしたが、なかなか元の通りはいらない。そこで初めてそれと気付いた先生、からからと笑いながら生徒に向って大声で日(いわ)く『コラッ! だれだったか、さっきやられた者は!出て来てこれをはめて見ろ!』と。其時一人の生徒が頭をかきかき出て、曲った刀に手を触れて見たのです。私はこのほほ笑ましい有様を見て、邪念のない実に美しい真の心と心の触れ合う師弟の姿に泪ぐましい感激を覚えた」と回想している。また当時生徒であった砥上榮次郎元教諭(大正9年採鉱科卒)も曲がった軍刀の事にも触れ、さらに「…上野先生はまたの名を『大学目薬』といっていた。ちょうど大学目薬の商標にあるあごひげ、眼鏡がそっくりだったので、かく愛称されたものと思う。先生は誰からも慈父の様に慕われ、また学校の生字引でもあった…今でもその慈顔のみが蘇って来るのも先生の徳の然らしめるところであろう」と述べている。

発火演習で訓示する校長の右下の上野壯吉右側は白のスパッツを着けた生徒たち(大正10 年2月2日)

5福岡工業学校校歌

 大正15年(1926)は学校創立30周年にあたり、上野壯吉は藤川勝丸校長から校歌に相応しい歌詞の創作を依頼され、次のような三番からなる歌詞が出来上がった。

(一)弘安明治の國難を しのぶ波濤の打寄する
福陵城下の一角に のぼる黒龍そら高く
えがく煙は名も知るき 工を學ぶ我が校ぞ
(二)實利を體し美を翳し こゝろは眞玉玲瓏と
清き流れの灘の川※ 68や 不斷の努力に天工を
奪ふて國の文化をば 進むる我等任重し
(三)勅語かしこみ守りつゝ つとめ勵みて玄海の
長風一路三千里 東亜の天地を打なびけ
平和の戦にかちどきを あげて皇國に盡さなむ

 この歌詞に対する曲は、藤川校長が賛美歌のなかから選んで校歌となし、同年11 月21日に挙行された創立30 周年記念祝典において合唱された。
 (一)番は、学校は、蒙古襲来といわれる文永、弘安の役と日露戦役の国難を見てきた博多湾を臨む小高い陵丘にある福岡城の直下にあり、実習工場から黒龍のように立ち昇る煙は、工学を学ぶ我が学校を世に知らしめている、という学校の立地と役割を表している歌詞となっている。
 学校がある福岡城の北側直近の湊町校舎敷地とその風景を幼少ながら旧藩時代からの変転をみてきた上野の感慨そのものであったと思われる。
 この歌詞は、上野が揮毫したものが額に納められて本館2階の講堂正面左側に掲げられたのが「濤聲」(昭和36号、昭和5年2月28日)の巻頭写真として載せられている。
 先にあげた歌詞は、これより取ったもので変体仮名交じりの書体で書かれ
ている。
 このときの校歌は、昭和6年(1931)に志村良光校長に交代の後に曲は陸軍戸山学校作曲のものに代えられ、これが旧校歌として伝えられている。

上野壯吉揮毫の福岡工業学校校歌

4 2つの教育功労者表彰

学制頒布五十年記念

 大正11年(1922)は、明治5年(1872)に学制が公布されてから50年を経たので、これを記念して同年11月3日午前10時より、学制頒布五十年記念教育功労者表彰状授与式が、福岡県庁正庁で県知事はじめ各部長以下関係者が出席して行われた。表彰されたのは全て現職員で、中等学校は上野壯吉を筆頭に9名、小学校については23名の計32名が県知事より表彰状と記念品が授与された。「多年本件初等中学小学教育に従事し勤勉其の功績顕著なるを以て学制頒布五十年記念に際し置時計一個を授与す」の表彰状を受け取った。この後食堂で茶菓の饗応があり、そのなかで平山中学修猷館教諭※ 67がかつて上野も学んだ藤雲館時代の沿革を述べているが、期せずして青春時代に思いを馳せたであろう。

 また上野壯吉のこの受賞を祝って卒業生有志一同で、藤川校長が2 ヶ月にわたる鮮満支那視察旅行の無事の帰還を祝いさらに併せて忘年会をかねて11月23日博多「山利」で祝宴を開いた。宴も酣となり、サアー藤川先生、サアー上野先生と胴上げに一同打ち揃ってメートルをあげたという。

御大典記念

 昭和3年(1928)11月19日京都御所に於いて、昭和天皇の即位式と大嘗祭
が行われた。
 この御大典に際して文部省は永年の教育への貢献あるものを選び教育功労
者表彰するにあたり、上野壯吉は選ばれてその栄に浴することとなった。
 この慶事を祝って学校長はじめ職員、在福附近卒業生及び関係者有志約百十余名は、同年12月22日、市内西中洲ブラジル2階広間において受賞祝賀会が開催された。藤川勝丸校長の祝辞に続いて記念品が贈呈され、これに上野壯吉がお礼の挨拶を述べてのち、3階大広間で宴会となり和気藹々裡に散会した。
 年明けの1月1日付けの会報紙上で「お礼とお願い」として次のように挨拶をしている。
「益御清康奉賀候陳(のぶれ)ば小生儀永年勤続の故を以て客秋の御大礼に際し文部大臣より賞状及び御紋章入り硯箱拝受の光榮に浴し感激罷在り候、畢竟諸先生並に会友諸彦(しょげん)の推挽による処と難有奉感謝候、殊に昨冬は盛大なる祝宴を御開催被下且過分の紀念料を忝うして却て汗顔の至りに奉存候、先は延引且略儀ながら拝謝仕度如比候」
 と述べ、さらにこの度の恩賞は誠に千載一隅の光栄であり書画帳を制作して家宝として保存したいので自筆の又は知名紳士の筆跡を請い受けたく画仙紙か唐紙にてご送付くださるようお願いしたい、と述べている。