3福岡工業学校教師

 このような経歴の持主である上野壯吉は、明治31年(1898)5月2日付け
で、既に取得していた体操科の免許で兵式体操を担任する助教諭として勤務
をはじめる。教導団での主要学科の1つがこの兵式体操だった。後に、武士
の素養として学んだ漢学や習字を生かして国漢・習字も担当した。

2生い立ち

 上野壯吉は文久2年(1862)3月29日、生地を福岡県遠賀郡江川村大字拂川(現北九州市若松区)として、福岡城下の地行東町(現中央区地行1)の福岡藩士の家に生まれ通称を壯吉諱を尚義といい後に号を江陽とした。

 明治6年(1873)11歳より18歳までの問、同郡吉木村(現遠賀郡岡垣町)に明治2 年(1869)に学塾・己百斎(こひゃくさい)を開いていた海妻甘蔵※ 60や後に宮本茂任※ 61に歴事した。福岡市薬院町(現中央区大名1)の春信義塾※ 62や旧藩主の援助で設立され後に再興された修猷館の前身である福岡市浜町※ 63(現中央区舞鶴3)の藤雲館※ 64で和漢籍及び普通学を修めた。海妻甘蔵は、明治24年に福岡に帰り、柳原(現中央区赤坂3)のちに船津町(現中央区天神5)に没するまで在住したので、上野壯吉は教職についても師との往来があったと考えられる。

 その後明治13年(1880)8月、陸軍教導団※ 65歩兵科に入学し、19歳となった明治14年(1881)11月に卒業した。卒業と同時に陸軍歩兵伍長に任じ、熊本鎮台勤務、その後明治26年まで第十二師団に所属、陸軍歩兵一等軍曹で満期退役した。明治26年(1893)12月、30歳で芦屋高等小学校準訓導となり学校教育に携わることになり、同29年に文部省より師範学校尋常中学校教員の免許(体操科)を受ける。

 陸軍教導団は、その前身を教導隊といい、明治2年(1869)11月陸軍兵学寮に先行して大阪において創設され、明治5年(1872)6月東京移転後に教導団と改称、兵学寮管下の教育機関の1つとなったが、同年の徴兵令施行に伴って兵学寮を離れ陸軍省直轄の主に下士官教育の養成所となった。陸軍教導団条例の総則第一条に「陸軍教導団ハ陸軍下士ニ出身志願ノ者ヲ選抜シ之ヲ生徒ト為シ諸兵ノ下士ニ要用ナル学術ヲ教授スル所ナリ」として歩兵科をはじめとする6科※ 66があった。

1教育功労者表彰

 冒頭の写真は、上野壯吉が昭和3年(1928)11月19日に挙行された昭和天皇の即位式と大嘗祭を記念して「御大典教育功労者表彰」が行われ、その功績を認められて受賞したときの記念写真である。その上野の光栄を記念して、学友会誌「濤聲」(第32 号・昭和4 年2月15 日)の巻頭を飾っている。

 旧制の福岡工業学校時代の生徒や卒業生にとって、厳しくも優しい親の如く、厳父と慈母の心をもって生徒の訓育にあたった教師として語られ慕われてきたという。幕末に生を受け6歳のときに明治維新を迎え、幕末から維新に掛け旧時代の初等教育を、後に陸軍教導団で近代教育を受けて、福岡工業学校創草二年後の明治31年(1898)に教師となり昭和6年(1931)に退職するまで、実に32年問の長きにわたって勤務した。国語・漢文、兵式体操の教師として、また寄宿舎舎監としてその厳格な指導は有名であった。しかしながら、生徒や卒業生からは慈父の如く親われ大学目薬※ 59と愛称されて伝説の教師として語られ慕われてきたという教師であった。

5家業修業

 明治35年(1902)12月に、糟屋郡の中では2番目に早く、志免村に志免実業補習学校※ 6が開設された。これは農家の青少年を対象として農業補習のための農業講習会が開かれることになり、糟屋郡では志免村の志免尋常小学校での開催であった。受講生の資格は高等小学校卒業以上で25歳以下の男子で期間は6 ヶ月であった。徳永は、高等小学校同期の友人と二人でこの講習を受講することにした。
 小竹から会場までは、13kmほど隔てているので学校に比較的近くの商家の2階に7名とともに合宿をし、受けた講習は農業立国論を基にする農業の増産を目的とするものであった。
 夕食後のお互いの談話では、日本がとるべき道は明治28年の日清戦争勝利終結から数年後、国際社会の中でさらなる展開を確立するべきとき、これからの青年は農業か工業か、いずれの道へ進むべきかなど自分たちが取るべき道について議論がされた。
 講習会終了式では、受講生のなかでただ一人成績優等として表彰され副賞に「二宮尊徳伝」、「水稲改良栽培法」など書物を授与された。徳永はこの講習会で得たこととして、1.農業の概要を学んだこと、2.今後は農業よりも工業の道に進むべきと感じたこと、3.自分自身の能力を悟ったこと、の3つをあげて「励めば普通の人の成し得る程度のことは、自分にもできると自信を得た」と述べている。
 徳永の生家は、農業を家業としていて祖父伊作の遺言もあり、父親は息子を隣地に分家として独立させるために農業講習会の終了を期に農業への就業を待ちわびていたので、工業学校への進学は認めてくれず早速実働の農作業が始まった。
しかし徳永の決心は、工業学校で建築を学び、それで身をたてることであったので、無断で受験して合格の実績をもって父親の了解を得るという計画を実行した。そのために、祖父の隠居部屋をつかって農作業の合間に時間を見つけ、いわば隠密裏に受験準備をしたと述べている。

4初等教育を終える

 徳永庸は、学齢に達すると大字小竹の中心近くに設けられた村立青柳尋常小学校分教場に通って2年生まで学んだ。1、2年生合わせて30名足らずの分教場は、普通の農家の畳を除いて板張りにした6帖と4帖半の2室が教室で3帖が教師室兼湯沸場であった。教師は小竹と青柳尋常小学校の途中の街道筋にある長泉寺の住職で、この分教場を修了すると進級試験を受けて本校に通学することになった。この分教場は大正2年に閉校となっている。こうして明治30年に、青柳尋常小学校4年を終えると青柳字神田の青柳高等小学校へ進み4 年修業ののち卒業した。

3生い立ち

 徳永庸は、明治20年(1887)12月18日、福岡県糟屋郡青柳村大字小竹(おだけ)588(現古賀市小竹)に父忠吉、母フジの次男として生まれ幼名を長兵衛といった。
 糟屋郡は、福岡市の東側に隣接し北西は玄界灘に接して東南部に広がる地域で、北部には豊前小倉を起点に赤間、青柳、箱崎を経て福岡、さらに前原を経て肥前唐津に至る藩政時代に整備された唐津街道※ 4が通っている。大字小竹は、明治22年に青柳町や周辺の村が合併して青柳村となるまでは小竹村であった。小竹はこの街道筋にある青柳宿の西構口跡を出た約1.5kmほど福岡側の小竹口からおよそ600mやや南西にはいったところに位置する集落で、この往還をさらに西へ1.5kmほどいくと太閤井戸※ 5がある。この街道は明治18年に国道となったが後に国道3号として整備されたとき郡内域の路線は北側に新しく整備され、旧街道は県道504号となって今に至っている。