2徳永庸が残した冊子と草稿

 徳永庸は、生前に身辺の出来事を書き記した次の6編の文章を残しているが、いずれも追想録に所収され、「励みに生きる」から「励」をその副題としているので、この「徳永庸伝」の主題も「励みに生きる」とした。

「旅の追憶」(昭和7 年11月6日)

「欧米一周の旅を了へて」(昭和8 年2 月)

「その頃の追憶」(昭和35 年10月)

「その頃を回顧する 十人の侍達」(昭和39 年2 月)

「励みに生きる」(昭和40 年1 月)

「私の伊作お祖父さん」(昭和40年3 月20 日)

「その頃を回顧する 十人の侍達」は、小冊子として残されたもので、表紙には「永年に渉る協力者 妻安喜子に捧げる 昭和39年2月 徳永 庸 東京都北多摩郡国立西区265の私宅雑花園にて 梅の花、花を数えて、喜の齢」と記されている。

 また追想録発刊にあたり、妻・安喜子※ 3は「想い出すがままに」を寄せ、さらに村野藤吾はじめ12名が故人を偲んで徳永にまつわる追憶や感慨を述べこれらも合せて所収されている。以下追想録を参考にして徳永の足跡をたどってみよう。

徳永庸追想録

徳永庸追想録

1パリで撮られた写真

徳永庸(とくながよう)

 冒頭のポートレイトには、右下に筆記体でY¸Tokunaga Paries20th.may.1932とサイン※ 1が書き込まれている。徳永庸(とくながよう)が、昭和7 年(1932)1月に早稲田大学から1年間の欧米派遣を命じられてパリ滞在中の5月20日に撮られたもので、このとき徳永は45歳となっていた。それからさらに46年を経た、昭和52年(1977)は徳永庸の没後13回忌にあたり、祥月命日の3月20日を期して1冊の追悼の書物が上梓された。それは、徳永を偲んで発刊されたもので、箱入りA4版290頁の「徳永庸追想録・励 ―その足跡―」で、巻頭に掲げられているのがこの写真である。

 顔をやや右傾け、分け目をつけない頭髪につづく程よい広さを保った額の下には太い眉、細身の丸縁眼鏡の奥から穏やかにこちらに向けた眼差し、鼻下にはバランスの良い髯と自然に結んだ口元。幅広のラペルのスーツには、襟元に小ぶりに、しかしはっきりとディンプルをつけて結んだストライプ柄のネクタイとチーフのいでたちは、大正から昭和につづくモダンを示して、徳永自身が述べているように、もはや「田舎生まれの只野凡児※ 2」の姿は消えうせてそのままパリの街に溶け込みそうである。

この頃、建築界はモダンデザインの時代にあり、徳永は早稲田大学助教授のかたわら大正末年に建築設計事務所を設立して、岩手、茨城、群馬、長野、佐賀の各県で公共施設や個人宅を手がけ、昭和6年(1931)には銀座ビルディングを竣工させるなど建築家としてまさに佳境のうちにあった。

24退任

 城戸開内の記録の末尾は、「明治四十四年四月 依願工手ヲ免ス」の一行が記されているのみで、このとき城戸開内は67歳を迎えていた。

23機関場の実習

 製図、原型、鍛工、仕上の各工場における生徒実習は、各分野の基本作業の習熟と製作が課せられるが、機関場では当番となった生徒は一人宛1、2週間無交代でボイラへ石炭の投入、灰の取り捨て等を実習とする、いわゆるボイラー焚きをした。冬季ともなるとこのボイラの上には弁当箱の行列が出来て、弁当が冷えないように温めたという。休憩時間や弁当時には、火夫の世間話に花が咲き生徒は耳を傾けて聞き入り機関場実習は苦痛感じることはなかった、という当時の生徒の回顧談が残っている。幕末激動期を藩の船手組、新政府蒸気船機械方士官、そして民間人として、時代の最先端技術の蒸気船乗りを務めた城戸の懐旧談を、生徒は聞き入ったであろう、と想像するだに興味深いものはない。

22機関場の設備計画

 これらの諸設備の計画・設計・製図・見積などは藤川・大橋両教諭が担当しているが、藤川の設備計画の草案メモ、大橋が描いたと思われるものなど数枚の図面が藤川文庫にある。

汽罐(ボイラ)
 汽罐の諸元と使用材料の細目も記録されているので、表示などほぼ原文のまま示すことにする。 ※記号「ʹ」はフィートを「ʺ」はインチを示す。
 Daim( 直径)5ʹ-0ʺ(1.523m)、length( 長さ)20ʹ-0ʺ(6.1m)、型式:Cornish boiler、Working pressure(使用圧力)55 lb.per sq.inch( lbs / in2、PSI)(379.2kPa)
 使用ノ鉄板ハ凡テSiemens Martin Steel ヲ用イ側板厚3/8ʺ、四八ノ板周囲二枚接手二列鉸釘長仝板六枚継ギ一列鉸釘長トナス、鉸釘ハ径3/4ʺ最上スイッツル鉄ヲ用ユ、flueハ径2ʹ-6ʺ、厚(3/8)ʺ、四八ノ板5枚、同板五十板一枚ヲ用ヒ(ハギ合ワセ)継ギ焼付連接ハ凡テAdamsonʹs jointトナシ、参個ノGalloway tubeヲ付ス、鉸釘径(3/4)ʺ前仝鉄ヲ用ユ、連接用ringsハ厚(3/8)ʺ巾2ʹ-1/2ʺ鉄ヲ用ユ、Endplateハ厚1/2ʺ、5ʹ-6ʺ角ノsteel plateヲ用ヒ表面ハ三吋隅鉄ヲ以テ側板ニ鉸メ后部ハ側板ニ曲込ヲナス、前后に各三個ノGusset stayヲ直角鉄ヲ以テ取付リ、汽罐上部ニ径2ʹ-6ʺ 高2ʹ-0ʺノsteam dome一個及castiron manhole一個を附スル。
 付属品として、4ʺStop valve、3ʺSafety valve、2ʺFeedcheck valve、2ʺblowoffcock、5ʺPressur Gauge、3/4in Water gauge、その他Firebars52 本、Whistleボイラ本体は、直径が1.523m、長さ6.1mで厚さ9.53mmの鉄板の円筒形で、両端面(鏡板)の厚さは12.7mmで作られ、この本体の中に軸方向に直径762mmの炉筒を取付けたものである。
 水圧試験費用は別途としているので、完成後に耐圧試験をしているものと考えられる。
 「列伝Ⅰ」の表紙見返しに示したが、「汽罐及煙突之図(部分)」としてあげておく。

汽罐及煙突図

蒸気機関
 Daim of cylinder:11ʺ、Stroke of cylinder:18ʺ、Working pressure:50lb.per sq.inch、Revolution per minute:45、Diam of flywheel:5ʹ-0ʺ、Diam of Driving pulley:6ʺ × 3ʹ-0ʺ、( シリンダ径:279.4mm、ピストン行程:457.2mm、使用圧力:50 PSI、毎分回転数:45、フライホィール径:1,524mm、駆動輪巾×径:152.4×914.4mm)

蒸気汽罐の図(部分)
蒸気機関

煙突
ボイラー運転中燃焼する石炭が出す煙の排出を行う煙突は、黒煙を吐き出す姿が上る黒龍として旧校歌に歌われている。高さ60フィート(18.3m)、頂上内径2 フィート3インチ(68.5cm)で10 フィート(3.05m)につき3インチ(7.62cm)のテーパー(先細)を付けた煙突で、使われた煉瓦※ 58は、通常並形煉瓦と耐火煉瓦が使用され、前者は1枚1銭2厘の20,300個、後者は1枚4銭で3,200個が使用されている。

学校に聳え立つ煙突

21機関場の設備

 明治33年(1900)6月に、これまでの仮設の東中洲校舎から東湊町の新築校舎に移転して、教室などの施設整備は当然ながら、とくに実習に使用する諸施設設備の充実が図られた。
 機械科工場として、製図、原型、鍛工、仕上の各工場が設けられ、各科工場の諸機械の運転や必要な蒸気を供給するために機関場が設けられている。
 27坪(89.1㎡)の機関場にはコルニッシュ型汽罐※ 52(ボイラ)と17馬力の横置不凝汽蒸気機関※ 531基が据付けられ、汽罐への給水と各工場の必要個所へ
の給水のためのウォーシントン・ポンプも備えられている。後には機関場東側に18坪(59.4㎡)の発電場が設けられた。機械学部長の藤川勝丸は、機械学部のみならず各科の設備の計画に携わった。その当時の記録が藤川文庫にあり、その中に「明治33年度福岡工業学校新築臨時費予算」として、合計5,534円39銭1厘の金額を機械科染織科の設備予算として計上作成し詳細な計画案を残している。これによれば、城戸開内が運転を担当した汽罐(ボイラ)などの諸元は以下のようである。