20機械科工手
当時、機械科の工手は5名が実習を担当しており、以下に4名の略歴をあげる。
田中元吉(1859 ~ 1931)
安政6年(1859)福岡市蓮池町に生まれる。諸工場において実業に従事して経験を積む、明治30年(1897)3月8日付けで鋳工場附工手となり、大正2年(1913)5 月31 日退職する。
笠安太郎(1872 ~?)
明治5年(1872)福岡市東唐人町に生まれる。明治12年(1879)当仁小学校入学、同17年に博多大浜4丁目(現博多区神屋町)の筑前鉄工所に就職、同25年島井鉄工所、同27年九州鉄道小倉製作所、同31年久留米の黒岩工作所を経て明治31 年(1898)9 月5 日に工業学校鍛工場附工手となる。
深田卯之吉(1868 ~?)
明治元年(1868)福岡市大工町(現中央区大手門)に生まれる。明治15年に簀町(現中央区大手門)の濱崎久平に鉄工見習いとして3 ヶ年修業、同18年大蔵組出張所、同20年東京芝区久保町上野円三郎電気工場、同24年横須賀軍港造船部第一仕上工場、25年福岡県田川郡の炭坑仕上工場、同29年4月福岡市簀町島井鉄工所を経て、明治32年(1899)4月仕上工場附工手となる。
岩崎茂平(1851 ~?)
嘉永4年(1851)筑紫郡堅粕村に生まれる。各地の諸工場で実業に就いて修業の後明治34年(1901)1月機械科原型工場附工手となり、大正3年(1914)3月31日に願いにより職を免ぜられる。
19福岡工業学校勤務
城戸開内は、1年間の病院勤務ののち、同30年(1897)11月に福岡病院を辞職して、病院跡に移転してきた福岡工業学校に明治31年(1898)5月3日付けで「福岡工業学校金工科※ 51火夫ヲ命ズ」の辞令を受け、機関場附工手として赴任して火夫を勤める。
この時期明治35年度の工手は、染織科2名、建築科2名、機械科は原型・鋳物・鍛造・仕上の各工場と機関場に5名の計9名の工手がいて、それぞれの学科に必要な基本作業から応用までの実習を担当する。機関場では、汽罐及び蒸気機関の運転実技を習得させるものであった。ボイラへの給水に始まり点火から石炭の投入、火力の調節、安定した蒸気の発生、蒸気機関の運転、消火から灰の取り捨てまで近代の学校教育を経ずして幕末以来習得してきたものを、新しい時代の教育として教示することになった。
旧藩福岡港を望む学校
勤務を始めた学校は、敷地の北側に運動場がありそれは博多湾の浜辺に接しており、蒸気船乗りとして務め通った福岡港は指呼の間であった。毎日のように眺めるその風景は城戸の心眼にはどのように映ったであろう。明治39年(1906)9月3日に機械学部長の藤川勝丸の小倉工業学校長栄転を記念して、少し埋め立てが始まっている学校裏の海岸にて全校職員生徒一同で撮った写真がある。生徒全員と一部の職員は6月1日から9月30日までと決められた霜降小倉織の夏用制服を着用している。左方小高い森は荒戸山(現中央区西公園)で、その手前が福岡港で数艘の帆船が浮かんでいる。
工手服務規程
明治37年の学校一覧によると、第12章として「工手服務規程」があり、通則、服装、場務、応急、特待の21条からなっている。第1条「工手ハ所属部長及工場長ノ命令ヲ厳守スベシ」にはじまり第2条「工手ハ常ニ言動ヲ慎ミ威容ヲ正シク生徒ノ模範標準タランコトヲ期スベシ」、第4条「工手ハ職務ノ余暇ヲ以テ校外ノ業務ヲ営むコトヲ得但学校長の許可ヲ受クルヲ要ス」、第5条「工手ハ生徒ヲ呼ブニ相当ノ敬称ヲ用ユベシ」、第8条の服装では「工手ハ昇校スルトキハ本校制定ノ制帽制服ヲ着用スベシ」として、冒頭にあげた徽章についても詳細に規定している。第14条の場務のなかに、「徒ラニ成績品ノ良好ナラシムルヨリハ寧ロ製作ノ順序方法及特ニ留意スベキ要点等ヲ深ク悟得セシムルヲ以テ實習ヲ授クルノ主眼ト爲スベシ」がある。
後に、第2代藤川校長により、これらの諸規定は改正され、改正以前は、教諭が工手に対する場合は「工手ノ氏名ヲ呼ブニハ敬称ヲ須ヰス但氏名下ニ『工手』ヲ附スルコトヲ得」であったが「工手ノ氏名ヲ呼ニハ職名ヲ以テス」、第5条の「…生徒ヲ呼ブニ相当ノ敬称…」は廃止され、また工手は実習教諭とする等と改正されている。
18県立福岡病院勤務
城戸開内は、明治29年(1896)11月に県立福岡病院の火夫として勤務するが、この時期までに病院勤務により便ということであろうか、本籍を筑紫郡千代村大字堅粕(現博多区堅粕)に定めている。
県立福岡病院は、福岡藩の賛生館※ 48を起源として幾多の変遷を経て東中洲に明治21年(1888)に開院したが、敷地の狭隘と施設の老朽化により筑紫郡千代村大字堅粕字東松原(現東区馬出3丁目1-1)に新築移転して、現在の九州大学病院となる。病院は、明治29年5月に完成して6月21に移転して診療を開始している。職員は院長はじめとする医師団とそれらを支える下足番に至るまで208名の職員で構成され、当時としては全国でも有数の人材と規模を有していた。この中に、機関師1名、機関手2名、器械手2名、火夫3名の技術方があり、城戸は蒸気や炭坑での火夫の経験をかわれての採用だったのであろう。病院の施設設備は、食事賄・集中暖房・洗濯・消毒・浴室等の蒸気機器に多量の蒸気を必要とするので大型の汽罐(ボイラ)新調等の予算18,000円が計上されて、これは、後にみる福岡工業学校の関係予算の3倍超に達している。これらの設備工事は、「列伝Ⅱ※ 49」であげた、斎藤製作所があたっている。
福岡病院移転後の跡地には一月後の7月に、創立して東中洲仮校舎の県有共進館で授業を始めたばかりの福岡工業学校が移転してきた。
ところで、福岡病院の卒業生で後に、福岡工業学校の校医となった人物がいるので、ここであげておくことにする。
校医・吉冨四郎(1859 ~?)
安政6年(1859)、福岡市本町(現中央区舞鶴2・赤阪1)に、賛生館所属の医師であった父・洞雲の次男として生まれる。明治16年(1883)福岡医学校を卒業して、母校付属病院の医員を務め、同17年自宅において開業する。
同20年東京神田の佐々木政吉※ 50のもとで内科実地研究の後、福岡医学校付属病院病理部の医員となる。同23年福岡市医に選ばれ、市医を嘱託される。同28年市臨時衛生医として東京伝染病研究所で研修する。明治31年福岡県師範学校医となり、兼任して同34年(1901)5月から同44年(1911)まで福岡工業学校医を嘱託として務めた。
17炭坑勤務
津波黒炭坑
明治18年(1885)12月糟屋郡津波黒村(後勢門村・現篠栗町)津波黒炭坑に火夫として勤務する。
津波黒炭坑は、明治12年(1879)城戸伊三郎外4名で僅少の鉱区を出願採掘したのが始まりとされるが、開坑当時はまだ諸機械の設備もなく背負籠での運搬であったのが、先ず坑内排水設備※ 47として蒸気ポンプとその動力源となる蒸気を発生する汽罐(ボイラ)が設置され、そのための運転保守要員として蒸気船機械方の経験により石炭についての知識や蒸気機関の運転実績などにより城戸が採用されたのであろう。
炭質は、品位深黒色にして光沢あり炭滓少しと評価されていた。
仲原炭坑
明治21年(1888)4月に粕屋採礦会社が仲原村花ヶ浦において、この地区で最も早く石炭の採掘を始め、同22年に仲原炭坑(現糟屋郡粕屋町花ケ浦)として機械や道路の整備が進んだ。同坑の石炭は発熱量も高く品位は良好であったが、鉄道が開通するまでは車力運搬や馬車鉄道であり、後に鉄道が敷かれて昭和初年頃まで続いている。
16西南戦争
明治10年(1877)2月7日、西郷隆盛による鹿児島県令大山綱良への「今般政府へ尋問の筋これあり」の通告とともに薩軍が挙兵して、後に言う西南戦争が起こった。
戦争が始まったこの時期は、開通していた鉄道は東京、京都近辺だけで、政府軍の前線兵站への兵員物資輸送は、福岡まで海路による輸送と前線までは陸送が主力となった。
新政府海軍の13隻の艦船のみならず民間の船舶も動員された。博多湾に上陸、荷揚げされた大量の物資は車力を主として熊本や宮崎方面に陸送された。このときに博多湾、今津湾での荷役から搬送で活躍した人物の一人が「列伝Ⅱ」で取り上げた村上義太郎であった。
征討総督府には、参謀部はじめ4部が置かれその中に川崎祐名一等副監督を部長とする輜重部があり、武器弾薬はじめ諸物資の搬送を采配した。
明治10年(1877)7月24日、都城が陥落して雌雄の大勢は官軍に傾き以後戦線は宮崎、延岡を経て鹿児島に至り、遂に同年9月24西郷隆盛の自刃により西南戦争は終結した。
この戦役中の同年6月、「都城ニ於テ(太政官)輜重部ヨリ金五十銭被下」として報奨を受けている。これは、陸送による弾薬物資の働きに対するものと考えられる。
船舶による前線への、いわゆる衝背軍兵卒の長崎・日奈久間の輸送があるが、戊辰戦争で船舶輸送に従事した経験がある城戸についての関係資料は見出していない。
15地区総代となる
明治8年(1875)8月から同10年3月まで博多第三小区総代申し付けられている。小区役場を扱処といい、第三小区は上店屋町、第四小区は蔵本町に置かれていた。