5幕末の蒸気船
日本人が前近代から近代にかけて、外国特に西洋から受けた科学技術の洗礼は、ポルトガル船がもたらした鉄砲と嘉永6年(1853)のペリー米艦隊の来航であった。これらは、その後の日本の社会構造にまで及ぼすほどの影響を与え、それのみにとどまらず開国して近代工業立国への道標を指し示すことになった。
幕府はペリーの来航を受けて、異国船を外冦としてとらえこれに対応する策を諸藩に徴し、直ちに大船建造の禁※ 11を解いた。また具体的海防策の表れとして近代的な海軍の必要性を悟り、嘉永7年(1854)11月11日にオランダに蒸気船2隻、咸臨丸と朝陽丸の建造依頼を決定している。諸藩もまた海防警備の意識をたかめ、蒸気船を購入してこれに備えた。幕府をはじめ幕末に蒸気船を所有していた藩は19藩あり、幕府の軍艦7隻、輸送船18隻の他、福岡藩3隻はじめに隣接する佐賀藩5隻、久留米藩3隻、小倉藩1隻であった。