4日本の開国
城戸が10歳となる、嘉永6年(1853)7月8日(旧暦6月3日)に、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー率いる2隻の蒸気軍艦と2隻の帆走艦計4隻の軍艦が浦賀に来航し、寛永16年(1639)以来続いてきた鎖国の終焉と開国の胎動が始まった。同年の7月18日に、長崎港にロシア極東司令長官プチャーチンも同じく4隻の軍艦で来航した。
幕府直轄地である長崎港の警備は幕府から課せられた軍役として、福岡藩と佐賀藩が隔年交代で、長崎奉行の下に長崎御番あるいは長崎勤番として港の警備に当たってきた。
オランダ、イギリス、ロシア、フランス、アメリカの艦船が日本近海に来航して長崎はじめ各地の沿岸を頻繁に窺い、これに対して幕府はもとより沿岸を持つ諸藩は海防のため艦艇の侵入を阻止迎撃する大砲を鋳造製作し、これを設置する台場の構築や海上での応戦や兵や物資輸送のための艦艇の整備に努めた。
安政2年(1855)幕府は各藩に海防沿岸防備のために、寺の梵鐘を鋳潰して大砲を鋳造せよと命じているが、福岡藩でも家中や藩内の郡町浦へ銅器など銅地金の献納を命じ、文久3年(1863)に福岡城下の荒戸波奈、洲崎に両台場及び西戸崎、志賀島、残島などに砲堡を築造した。ちなみに洲崎台場の石垣は、その一部が現在も県立美術館敷地の北側に残っている。
またこのような金属回収の事態は、後世昭和となり大東亜戦争時においても、金属類の供出令※ 10が各家庭にいたるまで達せられたが、この時に大正5年(1916)に設置されていた福岡工業学校正門の鉄骨ガーダーで作られたアーチ門も昭和16年(1941)に供出されている。