3船手組
福岡藩の軍団組織として編成された家臣団は、備(そなえ)と組で構成されていた。
備は、中老を筆頭に大身家臣が禄高に応じて編成し、それ以外の家臣団は組に編成され大組(おおくみ)、馬廻組、城代組などの士分の他に足軽などによる鉄砲組、船組(船手)などがある。
万延元年(1860)の家中分限帳によると、船組は船手頭の松本主殿の知行601石を筆頭に船頭、中船頭(7人)、小船頭(42人)、無礼船頭(16人)、梶取(119人)、加子(586人)の二人扶持四石まで773人であった。これらの人員を、2組から4組に分けて組ごとに小頭をおいた。船手の本拠即ち軍港は、荒戸の波奈(はな)(福岡港)※ 5に置かれ、蒸気船が採用される直前の嘉永期の福岡藩船数は、御座船(藩主のお召船)は住吉丸(72挺立)はじめ感應丸(60挺立)、香椎丸(60挺立)の3隻、御座船漕船(46挺立)常安丸、常風丸の2隻、御通船は長寿丸、不老丸(38挺立)、多幸丸はじめ6隻の56挺立、千手丸はじめ7隻の50挺立、他に46挺立から30挺立の船23隻など大小140隻に29隻の荷船の合わせて169隻※ 6という陣容であった※ 7。これらの軍船や荷船を操船運航する船手は、波奈を中心に洲崎※ 8近辺に住居し、城戸が住んだ蔵本町は洲崎の直ぐ東側に位置していた。
筑前福岡領内では、船頭、加子の名目があり士官無礼の区別はあったが、他領他国に出ると総べて船頭と称して苗字を用いた。
船手の居地
「福岡藩の船手※ 9」によれば、大正11年(1922)に当時の関係者を訪ねると、今や船手組について知る存命者は殆ど居ず、書き留めたものも失われていると述べている。
船乗は福岡城下の者のみにては不足で、須崎に受所がありそれぞれの浦や島から舟子を集めて乗り込ませたという。また船手の居地は、荒津山(現中央区西公園)の麓西南の塀ノ内(現中央区西公園7-9)と東北の波奈(現中央区西公園1-10)と須崎、蔵本浜が主で、遠賀郡若松(現北九州若松区)に小船頭二家と加古数人が世襲で居住していた。
図に示す地図は、明治20年(1887)の福岡市図の当該部分で幕末維新の姿が良く分かる、城戸開内が慣れ親しんだ福岡港の様子やその南側の海岸に穀倉と記入されているのが福岡工業学校となるところであり、前述の「ヘイノウチ」、「ハナ」の記入も見える。