3日本自動車に入社
卒業後は直ちに上京して東京芝区琴平町2番地(現港区虎ノ門1)に本社がある日本自動車合資会社に入社する。この年7月に元号が大正と改まるが、当時日本自動車合資会社は高田商会自動車部、梁瀬自動車とともに大正期における3大自動車会社の1つであった。
同期入社の先輩
このとき、同期入社となる柴藤啻一は毛利輝雄の福岡工業学校の3年先輩で大阪高等工業学校機械科(後大阪大学)を卒業しての入社であった。
日本自動車合資会社
日本自動車合資会社は、明治39年(1906)に吉田真太郎※ 5が内山駒之助を技師として設立した東京自動車製作所がはじまりである。吉田真太郎は、明治40年(1907)にガソリン自動車国産第1号となる吉田式自動車を製作し、「タクリー号」と呼ばれた。この第1号車は有栖川宮威仁親王に納入され、続いて10台が生産されたが、同製作所の経営ははかばかしくなく大倉財閥の2代目大倉喜七郎が石澤愛三※ 6を支配人として再建をはかり明治42年(1909)大日本自動車製造合資会社として改組され京橋区東豊玉河岸に設立した。さらに明治43年※ 7に日本自動車合資会社に改組され内山駒之助が去り、後任には後に毛利輝雄が上司として出会うことになる星子勇が工場長となる。貸自動車、輸入車販売、自動車修理及び車体架装、部品販売などが主要業務となり自動車製造から撤退した。大正2年(1913)に本社屋を赤坂区溜池町30番地(現港区赤坂)に新築移転して、翌3年石澤が社長となり株式会社に組織変更され、以後斯界で最も古い歴史を持つ代表的な自動車販売会社として昭和43 年(1968)まで続いた。
また全国に支店を設け、福岡では東中洲210番地(現博多区中洲3)に福岡出張所と付属部品部を開き、博多上呉服町の梁瀬自動車博多支店とともに中央大手2社が覇を競った。福岡には大正15年(1926)までには地元の自動車の販売修理を営む商会や店舗合わせて10 社が存在していた。
三洋社を興す
大正6年(1917)となり、日本自動車合資会社を退社して東京赤坂区溜池町30(現港区赤坂1)に居を構えて、同志3名とともに、衆議院※ 8(現経済産業省所在地、霞ヶ関1)前に、外国車の輸入販売修理を業務とする三洋社を設立した。この時期大正3年(1914)に日本の全国自動車保有台数が、1,000台を超え同6年には2,672台、同9 年には10,000台に、昭和元年(1926)には40,000台と急速な増加を示す変遷となっている。
自動車の普及が進み、この周辺に輸入外車を中心に販売店が集積するようになり、以後昭和となり同40年(1965)代にいたるまで自動車街と呼ばれるようになった。