1追悼の書
冒頭の写真は、昭和11年(1936)3月11日東京大井町北濱川1033(現品川区東大井)に逝去した毛利輝雄(もうりてるお)の追悼の書、「故毛利輝雄氏を語る」の巻頭に掲げられている遺影である。
毛利が勤務していた東京瓦斯電気工業株式会社(以後瓦斯電(がすでん)とする)による盛大な葬儀が13日に執り行われ、祭壇にはこの遺影が掲げられた。椅子の肘掛に右腕をまかせて正面に向けた面長の顔が宿す眉宇、静かであるが精悍で聡明な眼差しと引き締まった口元は内なる強い意志を秘めてこちらを見ている。
毛利の没後の僅か2 ヶ月足らずの翌4月28日に、故人となった毛利輝雄を偲んでこの追悼の書が東京で刊行されている。筆者がその存在を知りこの追悼集を入手したのは、それから63 年後の平成21 年(2009)であった。
この80頁にわたる「追悼の書」により、同窓会報などによる断片的な消息でしか知り得なかった毛利の人となりがはっきりと浮かび上がってきた。
そしてこの遺影は、「列伝Ⅰ」の久恒治助で述べたように、福岡工業高等学校歴史資料館に収蔵されている「物故者真影帳」にも収められている。明治40年(1907)に学校とときの同窓会、福岡県立工業学校校友会(現福岡工業工友会)は明治29年(1896)の学校創立以来、物故した職員と卒業生の慰霊のため追弔会を開催した。以後戦前までは毎年博多の古刹である聖福寺などで9月中旬の恒例の行事として前年までの物故者を中心として行われ、正面に設けられた祭壇に遺族から提供された遺影を掲げて故人を偲び追善の供養が捧げられた。残された遺影は整理のうえ大正15 年(1926)に「物故者真影帳」となし福岡工業工友会が保存して伝えている。
明治36年(1903)に大阪で開催され初代校長杉本源吾も審査官を務めた第5回内国勧業博覧会※ 1で、12の外国商館が公開した最新の自動車に数多の人々が眼を見張り関心を示して以来、その輸入販売や修理そして製作を試みるという日本の自動車黎明期を経て、明治末期には自動車製造会社の誕生を促し大正となり、組織的な生産の段階へと進んでいった。つまり日本の自動車工業の確立期を迎えることになる。このような時期に自動車技術に強い関心を持ち、既に自動車工業国となっていた米国に留学後は東京瓦斯電の工場長として自動車の開発に傾注した。試作から生産と実運用に至るまで心血を注ぎ、遂には「猛将毛利輝雄工場長」と称され「自動車のために一生を捧げた※ 2」、また星子勇に「自動車部中興の恩人」と言わしめ、瓦斯電工場長として取組んだ自動車生産の結実が、日本自動車工業確立の成果の幕のこれから開こうとする日本自動車工業の舞台から卒然として去って行った。