11絶筆と終焉
上野壯吉は、退職後の昭和8年から福陵工業新聞紙上に年賀状を掲載しているが、昭和13年(1938)1月1日付けの福陵工業新聞には第6面から16面にかけて、教師や卒業生が個人または連名で新年の挨拶を掲載しているなか、第8 面に上野壯吉の賀状がある。
それによると
「戦勝の新年を御祝申します 昭和十三年 元旦 東京小石川区関口水道町二一 上野壯吉」として添えられた一句「明けそむる神の御にはに老そけも 御軍人の幸祈るなり」
が掲載されたが、職員と校友会員は8ヶ月後にこれが上野壯吉の絶筆であることを知ることになった。
昭和13年(1938)8月22日、家族一同の手厚い看護も空しく午後3時、76歳を天寿として受け入れ、明治31年に赴任以来昭和6年3月にいたる33年間の福岡工業学校教師として、そしてその後も同窓会報に音信を寄せ続けていたが、ついにその生涯を閉じ伝説の歴史が始まった。
伝説の始まり
上野壮吉の逝去3 ヶ月後の11月25日付けの同窓会報「福陵工業新聞」でその訃報を次のように報じて伝説の人の1 ページが始まっている。
「厳父の如く何の遠慮容赦も無く叱り飛ばすかと思えば又時に慈母の如く
諄々として教えて倦まず一度(ひとたび)先生の謦咳に接して誰か其情の深きこと篤きことを感ぜざるものがあったろうか」と。
また、工友会が故人の逝去前後様子を子息の漸に尋ねたその返書によると、
「…退職後は静かに余生を楽しむという風情で平常家族には『奉公』と『人の為に尽す』と諭すことを日常のモットーとしていた。町内より出征せられた家があれば一軒ずつ訪問して慰め激励したり、また戦死せられたるところや出征する人たちには殊に慰問なり激励の心を篤くした。その方達に贈った歌として5 首を挙げているうちの1 つは※ 74、
武夫(もののふ)の心の胸にむち打ちて かしま立ちする君を送らん
また父は子供好きで孫はもとより近所の子供もよくなついていて、髭だらけの怖いような顔でも『お爺ちゃん』と子供が父を相手に遊びに来るほどで、子達には絵や字を教えていかにも自然なふるまいであった。病臥の期間は80日くらいであったが、あるとき「楠公の教詞を暗記しよった」といいそれは「忠孝」で「親には孝行君には忠義、これを忠孝という」と諭した。最後の2日あまりは黙っていたので何故かと尋ねると、『丁度啞が鰻のんだようにむしだまっとるネー』と云って一同を笑わせたのが最後の諧謔となり眠るような往生であった」と伝えている。