1パリで撮られた写真
冒頭のポートレイトには、右下に筆記体でY¸Tokunaga Paries20th.may.1932とサイン※ 1が書き込まれている。徳永庸(とくながよう)が、昭和7 年(1932)1月に早稲田大学から1年間の欧米派遣を命じられてパリ滞在中の5月20日に撮られたもので、このとき徳永は45歳となっていた。それからさらに46年を経た、昭和52年(1977)は徳永庸の没後13回忌にあたり、祥月命日の3月20日を期して1冊の追悼の書物が上梓された。それは、徳永を偲んで発刊されたもので、箱入りA4版290頁の「徳永庸追想録・励 ―その足跡―」で、巻頭に掲げられているのがこの写真である。
顔をやや右傾け、分け目をつけない頭髪につづく程よい広さを保った額の下には太い眉、細身の丸縁眼鏡の奥から穏やかにこちらに向けた眼差し、鼻下にはバランスの良い髯と自然に結んだ口元。幅広のラペルのスーツには、襟元に小ぶりに、しかしはっきりとディンプルをつけて結んだストライプ柄のネクタイとチーフのいでたちは、大正から昭和につづくモダンを示して、徳永自身が述べているように、もはや「田舎生まれの只野凡児※ 2」の姿は消えうせてそのままパリの街に溶け込みそうである。
この頃、建築界はモダンデザインの時代にあり、徳永は早稲田大学助教授のかたわら大正末年に建築設計事務所を設立して、岩手、茨城、群馬、長野、佐賀の各県で公共施設や個人宅を手がけ、昭和6年(1931)には銀座ビルディングを竣工させるなど建築家としてまさに佳境のうちにあった。