6軍用自動貨車民間試作勧奨
大正6年(1917)に、瓦斯電は大阪砲兵工廠から「陸軍制式4屯自動貨車(トラック)」の試作勧奨※ 14を受け、同工廠が製作した乙号自動貨車※ 15の詳細図面、材料、素型材、試作費まで支給された。陸軍の要請を受けた瓦斯電は、社内呼称で「A型」の試作を開始した。社長松方五郎※ 16はこれを機に、これまでのガス器具生産技術で培った砂型鋳物技術のエンジン製造への応用などを基に将来の自動車部門進出を見据えて自動車製作と航空機製作をする内燃機部※17を設置し、製造技術の統括として日本自動車合資会社から星子勇を招聘※18した。
大森工場
第一次世界大戦時の大量の軍需生産終了後は、諸計器類や発動機の設計生産を開始するが、自動車製造に乗り出すにはこれまでの業平町工場では手狭になり、京浜地方となる当時府下荏原郡入新井町不入斗(現大田区大森)に新工場の建設を計画した。大正6年(1917)6月、大森工場の一部が竣工して操業を開始し、航空機・自動車・工作機械・兵器・計器・紡績機などを生産した。毛利輝雄が入社したのは、新工場である大森工場が完工したばかりのころで、瓦斯電が自動車部門に主力を注ぎ始め、軍用保護自動車生産と運用試験を始めていた。工場には、クランクシャフト旋盤、歯切り盤、カムシャフト・グラインダー、スプライン軸を加工するブローチ盤など米国製の最新の工作機械が敷設された。
後輩の入社
大正9年(1920)の春となり、卒業したばかりの後輩が入社することになった。鎌田弘助(機械科大正9年卒/糸島郡)で、自動車工場工作課造機部に配属され、後に日仏シトロエン自動車会社に移っている。
軍用保護自動車の試作・採用
瓦斯電は、陸軍制式4屯自動貨車の受注生産の他に、車体は米国リパブリック社製のトラック※ 19を参考にして自社で設計、これに独自設計のガソリンエンジンを搭載した貨物自動車の製作に取り組んでいてこれを社内呼称で「B型」と呼んだ。
大正7年(1918)の軍用自動車補助法の公布に応じて、「B型」を同補助法にいう保護自動車の検定試験に応募して合格、保護自動車第1号として陸軍に採用され、国産の量産トラック第1号となり5台が生産された。これは、「TGE-A型※ 20」の商品名で発売された。保護自動車となった、「TGE-A型」は製造会社も購入者ともども補助金を受けられることになった。
保護自動車の資格検定規定では、10日間で1,000kmを走行、その間に8分の1勾配の坂道を上り下り、3時間連続時速12km運転、試験前後のエンジン性能検査、最後に分解検査というものであった。
その後のTGE-A型
保護自動車となったTGE-A型は、大正11年(1922)に改良型のTGE-G型軍用保護自動車として申請許可され11台が民間に販売されたが、不具合も起こり全部返品になって倉庫入りになるなど、第一次世界大戦後の不況により需要もなくなり、大正後半の自動車部門は底迷状態が続いた。
大正10年(1921)にはTGE-B型自動貨物車を完成製造したが、翌11年に関東大震災に見舞われ一部の工場が被災するなどして保護自動車の製造は一時中断した。
このとき、毛利と大正15年に入社してきたばかりの安藤喜三は、星子に呼ばれて、例の「分解して倉庫にあるG型車を基にして、君たちが思うような車をつくってみよ」と云い渡された。そこでまさに夜を日に継ぐ昼夜兼行、日曜祭日も返上して作業に取り組んだ。足掛け3 ヶ月後の10月末に完成したのが、TGE-G1型であった。
この運行試験には、陸軍自動車学校研究部長の長谷川正通大佐が担当であった。後に少将となった長谷川は、毛利の追悼文を書いている。この間の瓦斯電の経営を支えたのは、陸軍に納めるフランスの航空エンジンローン80 型、120型※ 21の2機種のライセンス生産であった。毛利は海外研修の際に、ローン社の視察をしているが、このような時期皆が航空エンジンに目を奪われているときに黙々と自動車の研究をしていた、と星子勇は回想している。
昭和となりG型を改良したGP型も保護自動車となった。装備も進化してエンジン始動は、手動クランク始動から電動スターター始動に、ホイールは木材スポークから鋳鉄スポークホイール及びディスクホイール、タイヤは現代と同様の空気タイヤに、ヘッドランプはカーバイト灯火から電灯へと進化している。また軍用の特殊車両や民間にも多数使用されている。