5家業修業
明治35年(1902)12月に、糟屋郡の中では2番目に早く、志免村に志免実業補習学校※ 6が開設された。これは農家の青少年を対象として農業補習のための農業講習会が開かれることになり、糟屋郡では志免村の志免尋常小学校での開催であった。受講生の資格は高等小学校卒業以上で25歳以下の男子で期間は6 ヶ月であった。徳永は、高等小学校同期の友人と二人でこの講習を受講することにした。
小竹から会場までは、13kmほど隔てているので学校に比較的近くの商家の2階に7名とともに合宿をし、受けた講習は農業立国論を基にする農業の増産を目的とするものであった。
夕食後のお互いの談話では、日本がとるべき道は明治28年の日清戦争勝利終結から数年後、国際社会の中でさらなる展開を確立するべきとき、これからの青年は農業か工業か、いずれの道へ進むべきかなど自分たちが取るべき道について議論がされた。
講習会終了式では、受講生のなかでただ一人成績優等として表彰され副賞に「二宮尊徳伝」、「水稲改良栽培法」など書物を授与された。徳永はこの講習会で得たこととして、1.農業の概要を学んだこと、2.今後は農業よりも工業の道に進むべきと感じたこと、3.自分自身の能力を悟ったこと、の3つをあげて「励めば普通の人の成し得る程度のことは、自分にもできると自信を得た」と述べている。
徳永の生家は、農業を家業としていて祖父伊作の遺言もあり、父親は息子を隣地に分家として独立させるために農業講習会の終了を期に農業への就業を待ちわびていたので、工業学校への進学は認めてくれず早速実働の農作業が始まった。
しかし徳永の決心は、工業学校で建築を学び、それで身をたてることであったので、無断で受験して合格の実績をもって父親の了解を得るという計画を実行した。そのために、祖父の隠居部屋をつかって農作業の合間に時間を見つけ、いわば隠密裏に受験準備をしたと述べている。