12新しい行政組織と福岡区の区制
明治4年(1871)4月、戸籍編成法が公布されてこれまでの郡村制は全国的な地方制度として行政区域が再編成され、大小区画制が採られた。それらを取りまとめる役目として旧来の庄屋、名主、年寄りなどの名称は廃止され、新しく区長・戸長・保長などの職分が設けられ地方行政と戸籍の事務があわせて取り扱われるようになった。
福岡では、明治5年大小区画制を採用して旧来の筑前国は、32区の大区(後に16区)に分け、早良郡福岡は第一大区、那珂郡博多は第二大区として藩政時代の博多津中と福岡市中のいわゆる津市対立※ 41の形態を存続したが、明治9年(1876)には、筑前国は九大区となり第一、第二大区を合せて一大区としてこれを四小区に分けた。区毎に区長1名、戸長3名、小区に副戸長1名(従前の年寄)を置いたが、副戸長は後に保長となり、明治21年(1888)の「市制及び町村制」の公布により、区制から市制に切り替えられた。翌22年に市制施行に伴い、市名を「福岡」あるいは「博多」とするか激論※ 42の末に福岡市となった。
小区の保長と総代を務める
城戸開内は明治5年(1872)となった夏、城戸開内は福岡藩では2年前の8月に藩兵断髪許可が出ていたので、それを受けて頭上の髷は落とされていたか、1年前の8月の太政官断髪令で落としたか、或いは侍の意地をもって帯刀はともかく未だ頭上にあったか、いずれにしても新しい時代の風を感じたことであろう。8月から翌6年6月まで第二大区(博多)の第三小区保長として奉職する。
この第三小区に属していたのは、城戸の住居がある蔵本町の直ぐ西側一帯の行
町(ぎょうのまち)(現奈良屋町)、浜小路(はましょうじ)(現奈良屋町)、西方寺前町(現奈良屋町及び古門戸町)、古門戸町(こもんどちょう)、妙楽寺町(現古門戸町)、妙楽寺新町(現古門戸町)6つの町であった。