4藤川春龍(1840 ~ 1929)
天保10年(1840)に遠江国浜松在貴布禰村に生まれる。先祖は武田信玄の臣内藤修理亮昌豊でその五代の叡、内藤清十郎昌清が甲斐国から遠江国に移住して姓を藤川と改め同国長上郡貴布禰村に定め代々神官を継ぎ、春龍は昌清より八代目となる。
安政年間に京都嵯峨御所天文方小松無極子恵龍※ 5について和算の円理截断までを学ぶ。次いで萬延より元治元年(1864)まで江戸の人大村一秀につき円理截断術の蘊奥を究める。また元治元年から明治元年(1868)の間、遠江の人元正紹より漢学を、同じく遠江の人有賀豊秋から歌学及び皇典を修業、明治2年皇典研究の祖平田篤胤の流れを汲む平田鉄胤に入門私淑する。翌3年(1870)、陸軍に出仕して川北朝隣※ 6、塚本明毅※ 7より西洋数学の手ほどきを受けた後、微積分学を究める。翌4年(1871)、静岡藩浜松郷学校教員を拝命以来教職に携り県立尋常師範学校、尋常中学校教諭などを歴任する。明治8年(1875)にキリスト教の洗礼を受けて以後深い信仰の道に入り、大正3年(1914)に名古屋市立名古屋中学校を最後に公職を退き専ら聖書に親しみその解釈を説き信者をして敬服せしめている。また数学に関する多くの著述を残して、その事跡は浜北市の郷土誌「郷土浜北の歩み」に「和算家藤川春龍※ 8」として取上げられている。昭和4年(1929)9月23日福岡市地行東町の長男・勝丸の居宅で逝去した。王政維新をなかに挟んでおよそ一世紀にわたる生涯であった。告別式は、同27日に天神町のメソジスト教会で行われて、福岡工業学校職員と生徒卒業生はじめ多くの知名紳士淑女の参列があり、またこれを去ること、2年前の昭和2年(1927)の9月5日に春龍は妻・蔦子を弔っておりこのときも同教会で葬儀が行われて、生徒代表として各科の生長が参列した。
藤川文庫には、春龍の書簡や著書「天学破邪論」があり、佐田介石※ 9 の著述「視實等象儀記※ 10」に対する反論として佐田を偏屈子としてその唱える天文学を邪説とし、「…正道ヲ害スル挙動アルヲ以テ止ムヲ得ズ其邪論ヲ破棄セザル可カラズ…」として逐一「視實等象儀記」の該当箇所を逐一特定して反論を述べている。