5中学校時代
静岡中学校と静岡縣尋常中学校
明治17年(1884)に駿河国静岡追手町※ 11(現静岡市葵区)にあった、明治11年(1878)に静岡師範学校内に開設された中学課を始まりとする県立静岡中学校に入学する。 当時の入学要件は、小学校中等科卒業以上であれば入学試験は課せられておらず、また初等科3 年の義務以上の就学者はまだ少なかった。
2年生となった同19年に県立沼津中学校と、県立浜松中学校の三校が統合され静岡尋常中学校となった。その後静岡中学校は、静岡市の中心の安倍郡西草深町(現葵区)に新築移転して、翌20年に静岡縣尋常中学校(現静岡県立静岡高等学校)と改称されている。
遠隔地からの生徒のための寄宿舎が、明治19年12月に設けられている。
在学中の明治21年(1888)11月、初めて遠州相良地方へ6日間の修学旅行が行われた。このころ、学校にはアメリカ人一名の雇教師がいたが、さらに一名アメリカ人を増聘して外国語授業を充実させた。卒業を間近にひかえた1月、父春龍が尋常師範学校と兼務で静岡尋常中学校で数学を教えるようになった。一等賞の書籍
5年生となって5月の大運動会で、障害物競争に出場した。一等賞を得て、「Waren Hestings※ 12:An Essey by T,Babington Macaulay」(明治18年、東京六合館翻刻出版)の書籍を授与されている。この表紙扉には「一等賞 静岡縣尋常中学校」、裏中扉には「明治廿一年五月二十七日静岡縣尋常中学校生徒春季大運動会アリ静岡旧城内体操場ニテ施行ス 之ノトキ競争第二十五回目障害物競争ニ於テ第一着ヲ得依テ賞一等トシテ之ノ書及ビフレデリックノ傳ヲ授与サル 藤川勝丸」と自筆の書込みがある。
郷里の母校へ
この資料はいったん藤川文庫に収められたが、母校となる静岡高等学校に収蔵されるのが最も意味あるものと考え、外観や内容など必要なものを記録して他の2点の資料※ 13とともに、先方の受入れの意向を確かめ、藤川とともに郷里を離れ福岡に伝わったこれらの本は、112年目となる平成14年(2002)に、はるばる静岡に戻っていった。
その他の資料
その他に、中学在学中に作成した講義録や「画學帖」と記した絵画練習帳が残っているが、これ等からはなかなか鋭い観察眼を持っていることがうかがえ、茶碗などの身近なものから花鳥動物のスケッチを残している。図画の師がいたかどうか分からないが、その繊細な筆致から興味を以って事物を観察し造形の訓練をしたようである。
また中学時代のノート数冊が残されているが、講義中筆記したものを浄書し挿絵も写して縦15cm×横11.7cmの小型の綴じ本としている。そのうち「尋常中学 物理・化学・農業」の1冊は、農学士・潮田辰一(農業略説・化学筆記)、理学士・平田義烈(物理志記)、理学士・秋山保(農学筆記)の三教諭の講義録である。
尋常中学校の修業年限は、5年で学科の規定のなかで第二外国語と農業については何れかを選択するとあり、静岡県尋常中学校は農業が採られ第4、5学年で履修し農場※ 14も所有していた。農具の犂(すき)のスケッチと説明文であるが、その図の緻密さと文字の小ささはスケールを添えて撮った写真からもうかがえる。
中学化学書
「中斈(ママ)化学書第一遍巻ノ上中下※ 15 理学士 磯野徳三郎編述 藤川勝丸冩」と奥書された写本がある。和紙47丁の作法通りに和綴じ装丁された縦22.4cm×横15cmの写本で、挿図も精緻極まる筆致で写図されている。
尋常中学校卒業
明治22年(1889)、2月11日に大日本帝国憲法が発布され学校でも祝賀式が挙行された。その翌々月の4月1日に、静岡尋常中学校卒業式が挙行され、藤川勝丸たち17 名は第4 回生として卒業した。