1はじめに
写真は、大正12年(1923)3月19日に第24回卒業生を送り出す直前に12名の生徒たちとともに撮られた記念写真の部分である。
福岡工業学校第2代藤川 勝丸校長は、最前列中央に位置してフロックコート姿にシルクハットを手にして、頭にはゆるやかにウェーブがかかり少し白髪が混じり始めたけれど未だ豊な頭髪を置き、鼻下には整った美髯をたくわえ、真っ直ぐとこちらに視線を向けている。21歳となり一年志願兵として近衛聯隊に服役、この時の軍隊手幉に自ら記した人相は、「幹:五尺三寸二 分、眼:稍大ニシテ鋭、顋:尋常、顔:長ニシテ方、鼻:隆ニシテ張、髪: 濃ニシテ黒、額:短ニシテ平、口:尋常、眉:淡ニシテ長」と記録した人物は今や51歳の初老を迎えている。教師となって24年を経て円熟の域、佳境のなか明治5年(1872)、日本の近代教育の始まりとなる学制が公布された年に生を受けた藤川勝丸の成長とその後の活躍は、日本が近代国家を形成する歩みとともにあった。
明治22年(1889)に郷関を出でて上京勉学の後、神戸での鉄道省勤務を経て、先輩でしかも恩師となる杉本初代校長の招きにより明治32年(1899)に福岡工業学校教師として西下、勤務中の同37年(1904)に日露戦争に従軍、帰還後は少壮の校長として小倉工業学校へ転任勤務の後、福岡工業学校長として15年間の礎を敷いた杉本源吾初代校長の後を襲って以後、退職するまでの20年間を第2 代校長として、福岡工業学校を磐石なものとした。
大正12年(1923)に終の棲家とすべく卒業生の設計により建てた福岡市内地行東町(現中央区地行4-3)に居宅を構え、また本籍を移し静岡を出でて福岡の人となった。
昭和6年(1931)に校長退職後は、キリスト者※ 1の永い信仰の実践躬行として、これまでも関ってきた福岡女学校(現福岡女学院中学・高等学校)の理事、教頭を務め、明治維新直後から、そして戦後の変貌していく日本の始まりを見て昭和26 年(1951)にその生涯を閉じている。