1はじめに
冒頭の写真は、建築学会(現日本建築学会)誌「建築雑誌※ 1」の巻頭に掲載された岩崎徳松の遺影である。岩崎は明治44年(1911)、当時日本国の統治※ 2のもとにあったに朝鮮に渡り、朝鮮総督府税関工事部の勤務についた。その後京城(現ソウル)で、辰野金吾の教え子で辰野葛西事務所に勤務していた中村與資平が開設した中村建築事務所に入所して、多くの建物の設計建設に従事し、また朝鮮建築界の学術団体として啓蒙的役割を果す「朝鮮建築会」の設立に深く関わり活躍した。この遺影は、82mm×60mmの写真を幅4mmの黒枠で囲みページの中心に配置して、その右側には明朝体で「故正員 岩崎徳松君」、左側に毛筆で書かれた自筆書名の「岩崎」の文字が遺影左下に懸かる様に添えられている。この遺影から伝わってくるものは、豊かな髪は左七三に綺麗に分けられ、やや楕円形の細身の眼鏡、切れ長の眼の奥からこちらを見つめる聡明な瞳、程よく引締まった面立ち、ラウンドカラーのシャツにセミピークドラペルのスーツで包む知的で洗練された容姿はしかし、あくまでも控えめである。この風貌は後に述べる、協同者であり師でもあった中村與資平のそれを彷彿と示しているほどに、両者は肝胆相照らした存在であったと思えてならない。
しかしながら、活動の地が内地に比し寒気厳しきなかで夜を日に次ぐ寧日遑(いとま)なき激務に、宿痾の忍び寄るところとなり建築家として大輪の開花途上、彼の地において空しくなった。没後に「…中村工学士とは、一面師弟の関係最も麗はしく、他面同学士の片腕となり、欠く可らざる協力者」と追悼された、前途多望の早世の建築家であった。
それから61年の星霜を経た昭和60年(1985)2月、西澤泰彦※ 3により岩崎徳松が正員でもあった建築学会の建築学会論文報告※ 4を初めとして、中村與資平に光を当ててものされた論考著作の中で触れられた一人が岩崎徳松であった。以後本稿は、これらの先考の援用を得て進めることとする。
これにより岩崎徳松は、日本の近代建築史における西澤が言うところの「海を渡った日本の建築家」の一人として、工業学校を出たささやかな存在であるとはいえ歴史上の人物となった。