藤川勝丸

岩崎 徳松

登場人物

岩崎 徳松

岩崎 徳松

1889-1924

中村與資平のもと朝鮮建築界で活躍

3実務練習と文部省建築課 福岡出張所

 前章の徳永庸で述べたように、岩崎徳松が3学年となった明治39年(1906)6月から、「各科4学年生徒ヲ実務練習ノ為メ各工場炭山等ニ配布ス」として官庁官衙はじめ各企業現場で「特修」として現業実習を行うことになっていた。
 現在のところ各人が実務練習で配置された官庁、企業の直接の記録は見出せいないが、建築学会誌「建築雑誌」の「本会記事」の欄に紹介者名と入会日、その時の勤務先或いは宿所などが掲載されている。これにより岩崎徳松の場合は、このとき入会が卒業前年の明治40年(1907)の4年生の11月であることから、実務練習中の准員入会であることがわかる。
 岩崎は、自宅の筑紫郡千代村大字千代町1076から近い京都帝国大学福岡医科大学(現九州大学医学部)構内に設けられた文部大臣官房建築課福岡出張所(文部省建築課出張所)で1年間の実務練習をすることになった。これは、卒業後の進路について建築の更なる勉学の希望もあり、それには実務練習を東京で行えば次の展開の機会も開けることなども考えたかもしれない。しかしながら母ひとりを残して家を出ることについての考慮があったのではないだろうか。前章の「徳永庸伝」で述べているように、判明している限り実務練習で東京に赴いたのは、徳永庸等3 名であった。
 このときの大学構内の出張所事務所は、現在とほぼ同位置にある正門から北西に伸びている構内基幹道路を100メートルほど進んだ道路左手に建っていた。
 福岡医科大学は、明治36年(1903)に京都帝国大学の分科大学として創設されたもので、施設は明治29年(1896)に福岡県立病院が福岡市東中洲から北東方1.7kmの筑紫郡千代村(現東区馬出)に新築移転して、それが福岡医科大学に移管されたものであった。ちなみに、この東中洲の県立病院跡は創立早ゝの福岡工業学校として使用された。
 大学構内には、ほとんどの建物が文部省直営事業として岩崎組が工事を担当し 医学部事務室や病理学はじめ各科教室の建設が開始された。明治40年(1907)11月に新築された外科・内科、眼科・産婦人科の各診察棟の建設に続いて同41年には独立棟の図書閲覧室や同43年に精神病学教室群の建設がこれに続いていた。このときには既に、岩崎徳松の先輩となる勝本(後岩崎)宇一(明治35年建築科卒)が就職して福岡医科大学の建設当初から関わっていて、両名はこれらの建設に従事した。

岩崎(勝本)宇一(明治35 年建築科卒)

 明治9年(1876)7月、福岡県築上郡岩屋村大河内243(現豊前市大河内)に生まれる。岩屋尋常小学校を経て、明治32年4月福岡工業学校木工科(後建築科)に入学して宿所を福岡市大円寺町永沼準方に寄留した。同35年(1902)に卒業して、京都帝国大学福岡医科大学の各施設の建設が始まり、大学構内に設けられた文部省総務局建築課雇員として、同省建築課福岡出張所に勤務する。このときの上司であり文部省建築課技師であった矢島一雄の紹介により明治36年(1903)10月に建築学会准員となっている。

福岡医科大学診察室新築建図

 その後、当工事と施工を担当した岩崎組に入り明治37年に宿所を博多対馬小路(現博多区対馬小路)にあった岩崎元次郎宅※ 5に寄宿している。明治39年に、勝本は逓信省の韓国京城の統監府※ 6通信管理局官舎、倉庫及びその他新築工事の施工を請負った岩崎組出張所に勤務し、工事は明治38年12月起工して翌39年12月に竣工している。このころ勝本は、岩崎組の第2代岩崎庄三郎の次女チカ※ 7と結婚して岩崎姓を名乗り、庄太郎と義兄弟となっている。さらに同42年には陸軍省の依頼で台湾基隆の基隆憲兵分遣所新築工事のため基隆哨船街に設営された岩崎出張所に異動して工事に従事した。工事は、鉄筋煉瓦その他木造2階及び平屋建で明治43年(1910)9月起工、同44年5月に竣工している。

建築学会会員

岩崎徳松は4年生の実務練習中の明治40年(1907)11月に、上司の文部省福岡出張所技師・矢島一雄※ 8の紹介により、同僚の福岡市中小路24を宿所としていた細江圓次郎※ 9とともに建築学会准員となっている。この時同時に、先輩の城戸新太郎(明治37年卒)は松室重光が、同期の宮脇喜右衛門は山下啓次郎が紹介者となり准員となっている。この時期、矢島は文部省建築課福岡出張所の責任者として本省から出張って勤務していた七等十二級従七位の文部省技師で、福岡医科大学施設新築の采配を振るっていた。
 また後に、入所して短い生涯を捧げることになる中村建築事務所に在勤中の大正9年(1920)7月、中村與資平と中村の大学同期の田村鎮※ 10(陸軍省経理局技師)と他1名が紹介者となり正員へと転格している。
 ちなみに、先輩の久恒治助が大正5年(1916)に正員に転格するときには辰野金吾はじめ多くの紹介者のなかに、かつて辰野葛西事務所で久恒と同僚であった中村與資平も名を列ねている。
 またこのときに、岩崎の先輩の野村梅次郎(明治36年卒)も台湾総督府民生部勤務のとき薬師寺主計※ 11と佐藤茂助外2名の紹介により正員となっている。
 建築学会正員となった岩崎は、新入会員の紹介者となることができたので、早速いずれも事務所の所員となったと思われる人物3名について、大正10年(1921)6月に川野義彦、9月早水旭を、次いで同11年1月古賀新吉を紹介者として准員に入会させている。

関連書籍

福岡工業学校 教師・卒業生 列伝Ⅰ

福岡工業学校 教師・卒業生 列伝Ⅰ

明治の工業学校に生きた人々

香月經男(著)石井金藏(監修)

明治29年(1896)、福岡市に設立された福岡工業学校の沿革史。今回は創設時である明治時代および大正時代初期の先生、卒業生の8人に焦点をあて奇跡を紹介しています。

福岡工業学校 教師・卒業生 列伝Ⅱ

福岡工業学校 教師・卒業生 列伝Ⅱ

明治の工業学校に生きた人々

香月經男(著)石井金藏(監修)

明治29年(1896)、福岡市に設立された福岡工業学校の沿革史。今回は創設時である明治時代および大正時代初期の先生、卒業生の8人に焦点をあて奇跡を紹介しています。

福岡工業学校 教師・卒業生 列伝Ⅲ

福岡工業学校 教師・卒業生 列伝Ⅲ

明治の工業学校に生きた人々

香月經男(著)石井金藏(監修)

明治29年(1896)、福岡市に設立された福岡工業学校の沿革史。今回は創設時である明治時代および大正時代初期の先生、卒業生の8人に焦点をあて奇跡を紹介しています。

書籍を出版してみませんか

「読まれる本をつくる」をモットーに

活躍するコンテンツホルダーたちのプラットホームとなり

現役世代にとって面白く役立つコンテンツを、

今すぐダウンロードして読める電子書籍として出版しています。

また、コンテンツに応じ、紙の書籍やWebサイトの展開も行い、効果的に発信します。

デジカルロゴ

株式会社デジカル

https://www.digical.co.jp/