18県立福岡病院勤務
城戸開内は、明治29年(1896)11月に県立福岡病院の火夫として勤務するが、この時期までに病院勤務により便ということであろうか、本籍を筑紫郡千代村大字堅粕(現博多区堅粕)に定めている。
県立福岡病院は、福岡藩の賛生館※ 48を起源として幾多の変遷を経て東中洲に明治21年(1888)に開院したが、敷地の狭隘と施設の老朽化により筑紫郡千代村大字堅粕字東松原(現東区馬出3丁目1-1)に新築移転して、現在の九州大学病院となる。病院は、明治29年5月に完成して6月21に移転して診療を開始している。職員は院長はじめとする医師団とそれらを支える下足番に至るまで208名の職員で構成され、当時としては全国でも有数の人材と規模を有していた。この中に、機関師1名、機関手2名、器械手2名、火夫3名の技術方があり、城戸は蒸気や炭坑での火夫の経験をかわれての採用だったのであろう。病院の施設設備は、食事賄・集中暖房・洗濯・消毒・浴室等の蒸気機器に多量の蒸気を必要とするので大型の汽罐(ボイラ)新調等の予算18,000円が計上されて、これは、後にみる福岡工業学校の関係予算の3倍超に達している。これらの設備工事は、「列伝Ⅱ※ 49」であげた、斎藤製作所があたっている。
福岡病院移転後の跡地には一月後の7月に、創立して東中洲仮校舎の県有共進館で授業を始めたばかりの福岡工業学校が移転してきた。
ところで、福岡病院の卒業生で後に、福岡工業学校の校医となった人物がいるので、ここであげておくことにする。
校医・吉冨四郎(1859 ~?)
安政6年(1859)、福岡市本町(現中央区舞鶴2・赤阪1)に、賛生館所属の医師であった父・洞雲の次男として生まれる。明治16年(1883)福岡医学校を卒業して、母校付属病院の医員を務め、同17年自宅において開業する。
同20年東京神田の佐々木政吉※ 50のもとで内科実地研究の後、福岡医学校付属病院病理部の医員となる。同23年福岡市医に選ばれ、市医を嘱託される。同28年市臨時衛生医として東京伝染病研究所で研修する。明治31年福岡県師範学校医となり、兼任して同34年(1901)5月から同44年(1911)まで福岡工業学校医を嘱託として務めた。