20毛利輝雄への揮毫
「追悼の書」の冒頭には、毛利輝雄のために揮毫された瓦斯電社長・松方五郎と玄洋社※ 47を率いた頭山満の書が載せられている。
松方五郎の書
「追悼の書」を出版するにあたり、故人を追憶して揮毫されたものであろう。毛利輝雄は、会社にとり貴重で得難く模範として見習うべき人材であつたと称賛を贈っている。1 枚目の書は、「亀寶 五郎」と書き次いで「『亀寶』故毛利氏之如き誠実神技之士ハ我社之寶なり亀鑑なりき」と書き、ともにしっかりと花押が記されている。
頭山満※ 48の書
明治から昭和初期にかけて玄洋社の総帥として活躍した頭山満の揮毫で、「至誠通神 爲毛利氏 頭山満」と書かれている。「追悼の書」で星子勇などが述べているように、頭山満の薫陶を受け私淑していたのであろう。ただし、玄洋社社員名簿には毛利の名は見いだせていない。米国では始終和服袴姿で過ごした、国士然とした風貌などの記録から頷けるものがある。この揮毫の経緯や時期は不明であるが、同窓であった白石好夫が玄洋社社員であったことから、白石を通して頭山との接点ができたものと思われる。
頭山満と松方正義
「追悼の書」に所収掲載されているこの2つの書の揮毫者である、頭山満と松方五郎の父・正義との間には、毛利の逝去から34年を遡る明治25年に起こった選挙干渉※49といわれる大事件で、1つの確執が起こっていた。この「追悼の書」は、発刊されてから当然頭山満と松方正義にも贈呈されたと考えられるが、見開き頁として配された両者の書をみてその心中を思いやると興味深いものがある。
玄洋社社員
ちなみに、福岡工業学校の教師・卒業生で玄洋社社員であったものは次の
ようである。
幾岡太郎一(1849 ~ 1929) 福岡工業武道(剣道)教師 (列伝Ⅱ/ P194)井上隆介(?~ 1950)(明治32 年建築卒)明道館員 岡部喜三郎(旧進藤)(?~?) 明治44 年採鉱卒、福岡市役所土木課長
白石好夫(後に慶雄)(1892 ~ 1936)
明治25年(1892)9月30日福岡県筑紫郡警固村庄(現福岡市今泉)に生まれ
明治36年(1903)住吉高小学校入学、明治40年に卒業して同年に福岡工業学校機械科に入学、同45年(1912)に卒業する。この後さらに早稲田大学政治科に進み、後に福岡に帰郷する。明道館※ 50員となり、大化会員、玄洋社社員となり、昭和11年1月31日に没している。