藤川勝丸

毛利 輝雄

登場人物

毛利 輝雄

毛利 輝雄

1892-1936

自動車工業の先駆けとして— 不世出の技師 東京瓦斯電で活躍

21追悼の書に見る毛利輝雄

「追悼の書」には44名の人々が毛利を追憶して、その出会いと毛利の人となりを綴りそれぞれに惜別の一文を寄せている。以下にその抜粋したものを挙げることにする。
 注:( )は当時の役職など、「 」は追悼文につけられている題目を示す。

長谷川正道(陸軍少将)「初期のTGEと毛利君」
 「…当時の自動車製造の苦心は並大抵のものではなくて、まず自動車用鋼が中々手に入らなかった。リアーアクスルやチェーンの試験機もなければ、殊にスプリングは計算もうまくいかなければ材料も良いのがない。バルブ等は鋳物で作った事さえあった。ある試験で星子君が運転して自分が助手台に乗り権田原の坂を上り始めた処が、逆行をはじめ、ブレーキは利かず田圃に落ち込んだ。車の横腹に東京瓦斯電気TGEと書いた大きな看板をつけていたが、直ぐに取り外し、近くに輜重兵大隊があったので車を引き揚げてもらった。その直後に直ぐにくだんの看板を取り付けて事なきように走り出したことがあった、がこれは毛利君の仕業だろうと話し合った…代用燃料則ちテトナリンをドイツから取寄せてその試験を毛利君に頼んだ事もあった…トレーラー、木炭車、或いは六輪車のキャタピラーだとか色々なものを出したが吉崎君と毛利君と則ち営業と工場とが実によく連絡をとって国産自動車のために骨を折ってくれた…兎に角TGEの今日あるは毛利君のおかげである…」
 陸軍技術審査部が軍用自動車調査委員会設置するころ、フランスから帰朝した大尉時代の長谷川正道は、陸軍に自動車の有用なることを認め技術審査部員とともに田中義一大将に軍用自動車確立を進言している。


天谷知彰(TGE顧問・陸軍少将)「毛利君を憶う」
「毛利君は実に我自動車界に於ける尊敬すべき功労者であった。君は我自動
車工業の極めて幼稚な時代から会社の自動車部に在って工場の業務に従事し
終始一貫技術の改善向上、工場の整備発展に全力を傾注し、苦心惨憺遂に会
社今日の隆昌を招来せしめ斯界の為大に貢献せらたのである…陸軍のある検
査官が『検査官として会社に対し注意を与えたり要求をしたり或は希望を述
べたりする場合には毛利君に話しておけば間違いも無く能く徹底して安心
だ』と云ったことがある。…会社に対する熾烈なる責任観念は往々耐ゆ可か
らざる病苦に耐え一身を顧みず任務の遂行に邁進せられたのである…」
三木吉平(陸軍自動車学校陸軍技師)「毛利君を憶う」
「菜葉服に身をを包んだ痩躯鶴の如き毛利君が工場の一隅に職工と伍して一
心に何事か見入っている姿を見た人はこの人が我が自動車工業界の巨擘瓦斯
電の自動車工場長であろうとは誰が気の付く人があろう。…二十年も前の我国が漸く自動車製造に手を染めた頃『せめて一ヶ月に二、三台でも自動車が自分の工場で出来るようになれば…』と口癖のように語った毛利君の身体がだんだんと痩せ、額の皺が増え鬢髪の白きを加えるとともに、我が自動車工業界は飛躍的の進歩を遂げた、転た感慨切なるものがある」


白澤 元(陸軍自動車学校研究部)「毛利君の思い出」
 海外実業練習生の同窓で、毛利がクリーブランド自動車で研修のときには、後に毛利も学ぶミシガン大学で自動車工学を学んでいた。
 小野盛次※51(鉄道省運輸局自動車課※ 52)「毛利さんの想い出を語る」
「大正八年日本自動車の柴藤啻一氏が洋行される時に紹介されて始めて知り合いになった。以来十八年ものお付合いで自動車界に於ける私のお付合いでは、星子さんを除ては一番古い友達で親交か深かった…」
 大正15年(1926)、東大で国産自動車の性能試験のときTGE、ウーズレー、オートモが選ばれTGEの代表として毛利が立ち会った。合間には内燃機関実験室裏で1本の木苺の下で談笑した。昭和5年(1930)、鉄道省主催で国産自動車性能検査があり、小野がTGEの検査担当で毛利が瓦斯電代表であった。毛利は小野に、欠点だけを早く知らせてもらいたいと申し出、技術屋の鑑を感じた。その風貌は誰でも感じているように、国士肌な豪腹な人柄であるが同時に温情を持って人に対した。技術屋が持つ自己的なところはなく着々と研究追及を重ねる人で、これが後に出る「ちよだ号」を生み出したと思う。
木いちごの花咲くころぞなつかしく ちよだの栄え祈りし君を
永に眠りし君の夢結ぶ  ちよだに乗って極楽の道
内山直(常務取締役)「毛利君のことども」
 「…私が会社に来たときは、宿痾のために長く欠勤をしておられた…玄洋社育ちの精悍の気が眉宇にあらわれ、竹を割った様なすっきりとした性格は人に愛せられて居った。…君は喘息のために痩せていたが元気は満ち満ちていた…、自動車の苦境時代に無理をしたことも彼が身体をこわした原因であった。…彼はいつも『こんなに大きく立派な工場にして貰ったのであるから働かねばならぬ』と言っていた…」


谷口賛三郎(支配人)「毛利君を憶う」
 「毛利君は明朗で嫌味のない男であった。よく語りよく笑う男であった。福
岡人特有の熱血漢で涙脆い所謂親分肌を多分に持っていた。怒るときは随分激しいが、後は光風霽月
※ 53至ってさっぱりとしたものである…工場では
 「山賊」のニックネームのようにとてもバンカラで、…我武者羅で風采には拘泥しないかに見えたが、銀ブラをするとき等はネクタイの結び方、洋服の着こなし具合は実にすっきりとしたもので、何処となく垢抜けがして矢張り洋行帰りだけの値打ちはあると思った。…送葬の日は天も哭して雨頻りに注ぐ内に多くの人々から心からなる愛別に去り行く英魂に冥福の多かれかしと祈ってやまなかった事であった」

横濱 俊(支配人)「逝去を悼みて」
「…毛利君は非常に緻密な頭脳の持ち主で、涙ぐましい努力を払い、自己の身体を投げ出して一人歩きの出来る自動車を作り上げる迄の彼の苦心を想う時困難なる創業時代の事が追憶されて感慨無量である」

星子 勇(自動車部長)「自動車の為めに一生を捧げた故毛利君」
 「君が大正六年、福岡工業学校を卒業して日本自動車会社に入社した当時、同社では数年前より乗用車を製作して居った。其の後製造上の困難から遂に中止する事となった。自動車を製造するには材料並に製造の方法から研究しなければならぬ。欧米の自動車製作技術を習得したいと云う希望は此の時に起こった。
 大正九年我社に入社し農商務省海外実業練習生となり、其の志を達し、米国「チヤンドラ」自動車工場に実習し続いて欧洲各国の自動車工場を視察し帰朝以来死去する迄自動車工場に勤務した。君は終始一貫自動車の為めに一生を捧げた人で、我が自動車部の今日の隆盛は実に君に負う所が多い。君が帰朝した当時は我社の自動車製造の最も不況時代であった。飛行機用発動機に力を注ぎ殆んど毛利君の努力をかへりみない時に、君は自動車工場を盛り立てゝ見せると言うて僅かの技工と共に熱心に自動車の組立てに従事した。
 実に君は自動車部中興の恩人である。君の一生を通じての念願は国防上、国家経済上最も重要なる自動車工業の確立であった。今や朝野を挙げて自動車工業確立に遇進し、近き将来夫の確立を見んとする秋、君の一生の念願を実現せずして長逝されたのは痛惜にたえない。毛利君は福岡の大先輩頭山満翁に私淑して玄洋社の薫陶を受け、正義の念に強く、古武士の風貌を備え、権勢に阿ねる様な事は蛇蝎の如く嫌うた。正古林卯三郎(航空機部副部長)「毛利君を想う」
 「…大正八年頃の我が自動車工業は実に幼稚極まるものであって、計画・材料・工作等現今の技術に比しお話にならないものがあった。従って我等の苦
心も亦想像以上のものであった。彼は其の当時から自動車の識見は一頭地を
抜いて、深い造詣有し教わることの甚だ少なくなかったことを今も感謝して
いる所である。…嘗て彼が米国の或る工場で研究中の時、六尺豊の巨大漢に
軽視されたとて憤然喰ってかかって巨大漢を辟易せしめたことがあった。…」
古林卯三郎は、昭和41年(1966)5月25日に「東京瓦斯電気工業の保護自
動車製造」の題目で口述したものが、昭和50年に刊行された「自動車史料
シリーズ(2)」に収録されている。
橋田 肇(計器部副部長)「毛利君を偲ぶ」
「毛利君と机を並べて自動車関係の仕事をしたのは、たしか大正13年から
三、四年だったと記憶する。お互いに三十代の若い血が燃えて居た頃だっ
た。其の頃は我が社の自動車原始時代で、B型、E型、自動車を造って居っ
たが、所謂世界的不景気の暴風が荒れまくって…注文もあまりないにもかか
わらず、毛利君は孜々として設備の改善に努力して居られた。…満州事変勃
発後の工場拡張に際し、君の不断の努力の結晶たる改善設備が反映し今日の
大自動車工場建設の基礎になった事は申すまでもない。…ごつごつしたあの
肩を叩いて、今一度語り合いたい、然し其の人は既に土に返ったのだ」
奥泉老生※54(囑託)「追憶を辿りて」
「大正八年頃の事かと記憶して居る。自分が陸軍を止めて東京に移転してか
ら二三年後の事のやうに思う。時々溜池の日本自動車株式会社の修繕工場に
出懸けて工場長の柴藤技師と会談した頃である。同室で時々見掛ける一人の
青年技師があった。始めの内は単に礼を交はすのみで別に言葉を掛ける訳で
もなかった。その内柴藤技師の紹介で毛利輝雄君であることを知った。併し
其当時は別段親しくする迄には交際が進んで居らなかった。無論其当時は柴
藤氏の指導の許で毛利君は修繕の仕事に直接従事されて居ると謂ふ自動車に
対する日浅き研究学徒の一人に外ならない時代であったと思って居ったが其
執務振りは極めて熱心で研究的であり職工の監督も真面目で仲々キビキビし
たところもあり将来大いに成すところある人だと思うていた。其内柴藤技師
が米国へ出張するようになったため竹澤とか謂う人が工場の主任となり確か
毛利君は一級技術者として竹澤氏を補佐し工場の総指導を一手に引き受けて
盛んに其手腕を奮う時代となっていたときのことである。或日工場へ遊びに
行ったところ毛利氏は自分に向かって千九百十一年式の「キャデラツク」車
の電気配線について研究された事があるかと聞かれたので一通り取調べても
見、其配線図も集めてあるから必要があれば書いて上げようと話して別れ
た。数日後に竹澤氏から一応キャデラツク車の電気部品につき取調べて貰い
たいとの言伝があったから配線図の手写したものを持って工場に出向いて其
部品を調べて見たが二三個不足して居ることが判り、取調べた結果車から取
外づした幌型「ボティー」に附けた儘大阪へ送り返したと判って電報で至急
取り寄せるやら頗る滑稽な事をやって新たに作った「リムジン」型の「ボ
ディー」に取り附ける段取りになった。尤も自分は毛利君に配線図を手渡し
て帰ったのであった。毛利君はこの配線に対しては余程悩んだものと見たが
二日二晩不眠不休の研究をして実地車体に取付を行ったようである。併しど
うしても「エンジン」の「スタート」が出来ないので色々に其配線を変えて
試験して見ても駄目であった。大概の人ならここで腰を折って誰かに助力を
乞う筈であるのにどうしても助力を乞はない沈思更に研究を重ね、自から車
の下にくぐり、運転台に飛び上がりなどして実際に配線の不備等を点検する
等あらゆる手段を盡して更に一昼夜の活動を続けたと聞き及んでいる。不幸
にしてこれも徒労に属し納入の約束日は刻々に迫って最早其翌日の朝に先方
の立会で試運転をせねばならぬまでに成っては如何なる毛利氏もこれには閉
口したと見え残念ながら竹澤氏へ援助方を申込んだのである。若しこの際納
入期日に二三日の余裕あるとしたならば更に一層の研究と其不屈の負じ魂と
によりて確かに其配線を完結し得た事と自分は其当時毛利君の絶大なる努力
と其研究熱の旺盛なるに敬意の念を禁じ得なかったものである。思うて爰
ここ

到ると毛利君が今日あるのは敢て怪しむに足らずと雖も其不撓不屈の負じ魂
が反って同君の健康を害し尚春秋に富む身を以て永逝するに到りたる原因で
あるように思惟し深く同君の死を惜しむものである」
小西晴二(自動車部設計課第1課課長)「思い出す儘に」
「毛利さんは線の太い人であった。歩き振りの様に豪傑振りは現代離れして
いた。大正九年頃だと思うが、実業練習生として渡米されるので横濱へ見送
りに行った。実業練習生制度は震災頃迄あったと思う。農商務省と云った時
代に一般から「エンヂニヤー」を募集し試験にパスした人を省の費用で海外
に派遣した。試験科目の中に、英語、会話があった。毛利さんも之れには大
分閉口されたと思う。こんな語を聞いた。耶蘇教の洗礼を受けられたかどう
かは知らぬが米人宣致師の居る教会に盛んに出入りして、外人の牧師と教義
を誦じ、会話の練達に勉められた。渡米中は之を盛に利用されたらしい。信
徒仲間のティーパーテイに招かれた時に、黒紋付の羽織袴で出かけ、あっと
云はせたとのことだ。米国の片田舎の事だから、定めし話題を賑はしたこ
とゝ思はれる。こんな具合に会話の機会を盛んに作られた。…米国の大製造
会社の社長がどう感違いしたか、君を日本の一大工業家として宴を催した。
こんな場合に、悪びれないのが毛利さんの特長だと思うが、先方を煙に巻い
て大変な御馳走になって帰られた。まもなく留学中の仲間から東洋の豪傑と
云う「ニックネーム」を贈られた。会社で盛んに活躍されたのは自動車部が
飛行機部と別れた頃だが、工場を今の計器工場の処に移した時に、会社の
隅々まで捜査して死藏された工作機を倉庫から運び出し、他工場の天井から
不要の「チャンネル」を引き外して「コンベヤー」の「レィル」として忽ち
にして新工場の形態を備えた。こんな具合だから、何時も事務上の手続き
が、追いつかなかった。先達て社報に山賊云々…とあったがこんな事が忌諱に触れて付けれたものと思う」
小西晴二は、昭和48年(1973)刊行の「自動車史料シリーズ(3)」の座談会
で毛利輝雄のことに触れている。
渡邊隆之助(自動車部設計第2 課課長)「挽歌」
この朝げ橋に置く霜著
しる
ければ病み臥す君を思ひて渡る
一たびはよしとし聞きて立かへる 春はや来よと祈

みてしものを

あめ

つち
に満てる寒波の極まりて 病み細る身の耐えずやありけむ 
供えたる藤浪花水やれど 垂れしほれつゝ術
すべ
なかりけり
經聲と天

幕く
打つ雨

音め
と寂
そう

ぞう
し つぎつぎに人おろがみゆくも
悲しみの喇叭鳴りて響きけり み枢今を家立たむとす
しとしとと外に春雨の降りければ 赤々と君は燃えにけむかも
社を思へばおのれはげみて幾日つづけ 日を夜を徹しつとめし君はも
工場の事務所に入れば今もなほ 「や」と云ひて君が寄り来るが如
TGE「ちよだ」「いすヾ」とつぎつぎに衢
ちまた
に会へば君の思ほゆ
自動車工業法案成らむとす あきらめ難く君逝きにけむ
筑紫の沖つ邊に燃ゆる不知火 君がみ魂と燃ゆる不知火
長野村俊一(購買第1 課々長)「毛利さんの思い出」
「…我々の知る限り、毛利さんは自動車で生れて自動車で死んだ様な人であ
る。大正の終り頃、其の当時の内燃機部がローン神風に夢中の時に、あの暗
い自動車組立工場で将来を夢み独り孜々と働いて居ったのは毛利さんであ
る。…実際最近は気で生きて居った様なものであった。毛利さんなき後の自
動車は淋しい」
杉野繁兼(自動車倉庫課長)「毛利さんに就て」
「…今の航空機組み立て工場の処に自動車組み立てがあった頃だった。係員
と云ったら佐藤信保君を始め川原君、吉村君それに自分の四人きりで先ず四
屯車の組立を皮切りに仕事を始めたのだが何分創業時代の事で捗々しくいか
ぬ。漸くにして完成、いざ試運転と云う時になると臍の緒切って始めて事だ
から腫物にでも触れる具合で恐るおそる最初の運転をやった、すると車が動
いたと云うので大喜び先づ乾杯と逝った様な調子であった…丁度此の頃組立
工場に皮の「ゲートル」を付け、靴と云ったら登山用底厚の当時はあまり見
慣れない奴を穿いて例の大股でのしのしと入って来る男が居た。我々は一寸
異様な面持で眺めて居た。之れが毛利君その人であった…」
田中案山子(自動車検査課長)「毛利君を悼む」
「…氏が此の病を得たのも実はL型自動車試作時代に非常に無理をし、連日
運行検査に出張なされたりして諸般の指揮監督に没頭せられた結果であると
思うのである。…現在自動車部の斯くの如く隆盛になったのは一に星子部長
の大手腕に依る事勿論であるが、工場長としての毛利君の功績も亦決して没
すべからざるものがある。今後国産自動車製造は国家的大事業であり…氏の
如き堪能の士を失うた事は誠に残念に絶えない次第…」
宇都宮實(自動車倉庫部)「終生意気の人」
「…氏が残した功績の偉大さは、終生を通じて意気の集積結晶でなければな
らぬ。この意気に就いて一端を知り得る逸話…ある日の一夕更けるを知らぬ
まで和気会談して其の中に氏の郷里福岡の地景美に及び、何気なく余生を故
山に終る哉と問いたるに、氏は忽ちかかる人生観を論難し『余は天職の為死
するまで働きて余生なく、まして家郷閑地など絶対に欲せざるが素志なり』
と持前の態度傲然たるものがあった。此の一言は実に氏が終生意気の人とな
り通し盡す資性を物語るに充分である…」
藤島 茂(自動車工場)「毛利工場長を偲びて」
「…かつて、HS型6輪車が試作された時のこと、試運転後に分解した時、
関係係員を集められ各部品を一々手に取られ詳細に亘って加工上の注意のこ
とまで御教示になった。此の時のことであったが、歯車の面の取方に御注意
を受けたので、其の後色々と形を直して御目にかけた所、非常に喜ばれ今後
はそれにし給えと即座に決められたのである。君達は品物を作るばかりでは
駄目である、出来た結果がどうであるかと云う事を知ることも必要であると
申され車の具合や各部の機能を覚える様にと時々車に試乗を許された。…」
岡村福男(実弟)「兄のこと」
「…兄はこの職業に満足し、且之が唯一のもので、何一つ外に道楽なく、別に新しく道楽を開拓する必要もなく、完全に職業と道楽とを融合させていました。…子供の無い寂しい家庭を自覚してか、自ら務めて家庭生活を明るくする様骨を折って居ました。全ての重心は家庭にあるが故に、家庭を忘却した人の成果には生彩が無いと良く話して居ました。全く良き家庭人であり生活の源泉たる家庭を培養するには如何なる努力をも惜しまなかった風です。故人となる十日位前、安藤様より自動車部草昧当時の昔話を承り、早速枕頭で本人に伝えてやりますと、何と感じたのか、多分往時を思い胸に溢するものがあったのでしょう涙に噎んで居ました。あの豪気な兄の涙を見た事は之が始めてであり且終りでした…」

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