19福岡工業学校勤務
城戸開内は、1年間の病院勤務ののち、同30年(1897)11月に福岡病院を辞職して、病院跡に移転してきた福岡工業学校に明治31年(1898)5月3日付けで「福岡工業学校金工科※ 51火夫ヲ命ズ」の辞令を受け、機関場附工手として赴任して火夫を勤める。
この時期明治35年度の工手は、染織科2名、建築科2名、機械科は原型・鋳物・鍛造・仕上の各工場と機関場に5名の計9名の工手がいて、それぞれの学科に必要な基本作業から応用までの実習を担当する。機関場では、汽罐及び蒸気機関の運転実技を習得させるものであった。ボイラへの給水に始まり点火から石炭の投入、火力の調節、安定した蒸気の発生、蒸気機関の運転、消火から灰の取り捨てまで近代の学校教育を経ずして幕末以来習得してきたものを、新しい時代の教育として教示することになった。
旧藩福岡港を望む学校
勤務を始めた学校は、敷地の北側に運動場がありそれは博多湾の浜辺に接しており、蒸気船乗りとして務め通った福岡港は指呼の間であった。毎日のように眺めるその風景は城戸の心眼にはどのように映ったであろう。明治39年(1906)9月3日に機械学部長の藤川勝丸の小倉工業学校長栄転を記念して、少し埋め立てが始まっている学校裏の海岸にて全校職員生徒一同で撮った写真がある。生徒全員と一部の職員は6月1日から9月30日までと決められた霜降小倉織の夏用制服を着用している。左方小高い森は荒戸山(現中央区西公園)で、その手前が福岡港で数艘の帆船が浮かんでいる。
工手服務規程
明治37年の学校一覧によると、第12章として「工手服務規程」があり、通則、服装、場務、応急、特待の21条からなっている。第1条「工手ハ所属部長及工場長ノ命令ヲ厳守スベシ」にはじまり第2条「工手ハ常ニ言動ヲ慎ミ威容ヲ正シク生徒ノ模範標準タランコトヲ期スベシ」、第4条「工手ハ職務ノ余暇ヲ以テ校外ノ業務ヲ営むコトヲ得但学校長の許可ヲ受クルヲ要ス」、第5条「工手ハ生徒ヲ呼ブニ相当ノ敬称ヲ用ユベシ」、第8条の服装では「工手ハ昇校スルトキハ本校制定ノ制帽制服ヲ着用スベシ」として、冒頭にあげた徽章についても詳細に規定している。第14条の場務のなかに、「徒ラニ成績品ノ良好ナラシムルヨリハ寧ロ製作ノ順序方法及特ニ留意スベキ要点等ヲ深ク悟得セシムルヲ以テ實習ヲ授クルノ主眼ト爲スベシ」がある。
後に、第2代藤川校長により、これらの諸規定は改正され、改正以前は、教諭が工手に対する場合は「工手ノ氏名ヲ呼ブニハ敬称ヲ須ヰス但氏名下ニ『工手』ヲ附スルコトヲ得」であったが「工手ノ氏名ヲ呼ニハ職名ヲ以テス」、第5条の「…生徒ヲ呼ブニ相当ノ敬称…」は廃止され、また工手は実習教諭とする等と改正されている。