藤川勝丸

毛利 輝雄

登場人物

毛利 輝雄

毛利 輝雄

1892-1936

自動車工業の先駆けとして— 不世出の技師 東京瓦斯電で活躍

15海外派遣

 毛利輝雄は大正10年(1921)3月11日の正午、農商務省海外実業練習生として横浜港出帆の東洋汽船ペルシャ丸で留学の途についた。このことを同年3月31日付けの交友会会報は、
「毛利輝雄君は、明治45年福機の出身にして、過般、瓦斯倫發動機研究のため農商務省海外實業練習生として向三ヶ年間の豫定を以て,北米合衆國(ママ)に向け三月十一日正午、東洋汽船ペルシャ号にて横濱港を出帆せられたり」と毛利の海外研修の壮行を報じている。

渡米を報じる会報

米国通信
 在米留学中の毛利は、母校同窓会に在米研修の様子を伝え、この通信は早速「福岡校友会会報」(同11年7月10日付け)に「米國通信(毛利輝雄君)」、として次のような文面を紹介している。
 「…出発前御面會申さざりしは實に残念に奉存候、何様問題が一時に輻輳致し候爲め東洋汽船に対する船室の申込みの如き三月十一日出帆の筈なるものに四月一日に申込み候様なる儀にて帰福は致候も何處も御伺い致さず、唯野田逓信大臣の仰せにより縣知事※ 37に面會致し數分を過したるのみに御座候。小生此度の研究の目的は自動車機關製造に關して工場見學を主眼に致し居り候えども当地に於ては日本人に対する工場研究は最も不可能事に候て入社すること甚だ困難に御座候。三ヶ年間は當米國内地に於て研究する考へに候も尚其余暇に於て獨逸か仏國の飛行機製造工場ローン會社※ 38に數日を費す豫定に候。内地に於ては一も二も外国人と見も知らぬ文明國を憧れ申候へども当地に参りてより、左程にも感じ申さず人惰は紙の如く薄く多數の異なれる人種の寄合の仲間に交はる事は常に内地に於ける様な安心を得ること能はざる儀に候。随て我と我身を守り一秒の油断も出来申さず候、一言にして申上ぐれば矛盾の塊りに候。叉一面には大に學ぶべき處も多くこれ有り候。人力を機械力に替へんが爲め日々市場に出ずるパテントなるものは實に驚くべきものに候。さすが時これ金なりの國に侯。人物は決して学ぶべき必要なく候。只今小生はChandler Motor Car Commpany Lmd.City Cleveland Ohioに外國留學生と云う名義の下に全部の各部分に渉り研究する事を許され居り侯。当杜の製造能力が一日九時間六十三台平均に候。一台値一干五百六十弗に候、昨年の今頃は全職工五百人一日二十五台に候いしが、只今は職工
一千五百人に上り申し候、御参考までに當地發発行米新聞一部御送付申上候
云々」
 それによると、専らクリーヴランドのチャンドラー自動車会社で研鑽を積む傍らミシガン大学で自動車工学を学んでいる。この時の同窓生に、後に音楽関係で広く知られている堀内敬三※ 39がいた。

研修終了帰国
 大正13年(1924)の春、3年間の実務練習を終えて帰国した毛利は、同年5月25日報告をかねて母校福工を訪問した。この日は生憎、藤川校長は休みを取っていて、丁度授業中であったが学校は急遽全生徒を集めて、短時間であったが講話の時間をとった。
 これを受けて校長は、6月5日の朝誨で、「米英仏ノ飛行機世界一周競争」と題して、我飛行界の現状は未だこれに及ばざるの感があると話し、次に卒業生の消息に触れて機械科明治44年卒業の柴藤啻一の死去を惜しみ、さらに毛利輝雄について次のような内容で紹介した草稿が残っている。
 「此ノトキ当校卒業者44年ノ柴藤啻一(日本自動車ノ技師長)先日病死セシハ痛惜ニ耐ヌ(彼ハ将来斯界ニ有為ヲ期待サレシ人)」、「…然ニ45年ノ毛利輝雄、三年間米国デ研究ヲ了リテ復帰シ東京瓦斯電気工業株式会社ニ就職スルハ聊将来ニ望ヲ託サルニ足ラレ、将来アル生徒諸子ノ発奮ヲ望ム」
 と生徒に話しかけている。
 また毛利の帰国について、大正13年7月18日付け同窓会報に、「欧米土産」として次のように報じた。
「毛利輝雄氏は農商務省より、三年間の豫定を以て欧米に派遣せられたり、このたび無事帰朝、多忙の間を偸みて大正十三年五月二十五日來訪された、何様授業中で短時間ではあつたが、欧米に於ける種々の珍らしい話、竹場露嘉氏の米國に於ける奮闘振りなど、聞いて大いに意を強うした、尚氏研究事項、見聞、所感などは他日本紙で報道してもらうことにした」

星子勇(1884 ~ 1944)

星子勇

 明治17年(1884)熊本県鹿本郡鹿本町(現山鹿市鹿本町)に生まれる。同36年(1903)、第5高等学校工学部機械工学科(後熊本高等工業学校、現熊本大学工学部)に入学、同40年卒業後住友鋳鋼場(後住友金属工業株式会社)に入社するが、兵役のため退社して小倉野砲兵第12聯隊に入隊する。除隊後の明治44年(1911)大倉商事に入社するも、前年設立された同系の日本自動車合資会社に工場長として転じる。大正3年度の農商務省海外実業練習生として「軽油発動機及自動車業」の研修目的で米国デトロイトのハドソン社及び英国コベントリーのデラウェア社に留学・研修する。大正5年(1916)帰国後前職に復帰するが、翌6年東京瓦斯電社長・松方五郎の招聘により発動機部長として入社する。我が国最初の純国産トラックTGE A型の開発を主導し、以後日本の軍用及び民生用自動車の開発に関わり大正13年(1924)に取締役となる。昭和3年(1928)には、国産初の航空エンジン「神風」を完成。
 大正6年(1917)からディーゼルエンジンの研究開発をはじめ昭和7年(1932)に軽量高出力のオールアルミエンジンや石川島自動車・鉄道省などと共同開発し「いすゞ号」として知られている「商工省標準型式車」TX型トラックなどの開発に携わった。昭和17年(1942)日野重工業株式会社取締役となるが、長年の激務により昭和19年(1944)毛利輝雄と同様過労のため逝去する。平成22年(2010)に自動車殿堂入りとなった。「ガソリン発動機自動車」
 (大正4年)、「機械工場作業計画」(昭和9年・同16年)などの著書がある。

星子勇著「自動車」

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