17柴藤啻一(1891 ~ 1924)
柴藤啻一(しばどうただいち)は、明治24年(1891)2月22日福岡市下対馬小路(現博多区対馬小路)に生まれる。明治37年、福岡高等小学校を卒業、1年後の明治38年に福岡工業学校機械科に入学、同42年(1909)に卒業すると福岡工業学校と同じ明治29年に創立の大阪高等工業学校※ 41船舶機関科(現大阪大学工学部)に進んだ。
この時期、大阪高等工業学校には柴藤の福岡工業学校機械科の1年後輩で明治43年卒業の二人の外国人留学生がいた。楊志春と毛啓寰で、いずれも清国浙江省寗寧波奉化県出身の留学生として福岡工業学校に学び、毛啓寰は大正3年(1914)に、楊志春は大正6年(1917)に機械科畢業生(修了生)として卒業している。
日本自動車入社
大正2 年(1913)に大阪高等工業学校を卒業し日本自動車合資会社に入社。
大正6年(1917)日本自動車工作部作業場内で柴藤の設計により外国車の部
品を用いて乗用車1台を完成、その後同社は別種の外国車の部品を用いて試
作車を1 台完成した。
大正7年(1918)に社命により渡米し、ミシガン州のデトロイトに滞在、自
動車の製造や整備・修理法の訓練研修に励んだ。
「自動車」の出版
柴藤は、この滞米中の大正7年(1918)5月5日発行として東京赤坂溜池の極東書院から「自動車」(636頁、11cm×18cm)を出版した。これは当時の主要な自動車雑誌の月刊「モーター」誌に第2巻5号(大正3年5月)から第5巻4 号(大正6 年4 月)まで28 回※ 42にわたり「モーター通俗講話・自動車の話」として連載で掲載されたものをまとめ、加除訂正して発刊されたものである。校正を陸軍歩兵少佐奥泉欽次郎、柴藤の上司である日本自動車株式会社専務取締役社長の石澤愛三、雑誌「モーター」主幹の山本愿太が助言と援助をしている。毛利輝雄と同様に、日本の自動車工業確立期に活躍して大正13 年5 月25日に逝去している。
「自動車」自序
柴藤は、「自動車」発刊に際して巻頭に次のような自序を書いている。
「欧米に於ける自動車は、今や全く國民的必要品となりたり、國防の大事は素より、農、工、商の総てに渡り、之れを餘外しては、人類の行動を全うし得べからざるに至りたり。從って其敷の僥多なる實に驚くべきものあり、現に最近の統計によれば、米國現今の自動車数は、無量四百九十有餘萬臺に達し、人口二十人毎に一臺を有する状況なりと傳えらる。翻って本邦を見れば、全數漸く三千に満たず、國民の之れに注意するもの少なし、或は自動車を以て贅澤物視し、危険物視し、之れを驅除せんとする者さへある状態なり、欧米に於ては、自動車は、國民の必要品なり、然るに、本邦に於ては、之れを障害物として遇せらる。之れ果して如何なろ理由に出ずるや、原因素より一ならざるべし。さりながら其最大原因は、自動車知識の普及されざるにあるは疑うべからず。之れに於てか著者自ら揣らず、過去十年研究の結果蒐集したる材料を整理し、本書を著し、以て斯界に提供するに至りたり。
從って本書は、其説明單に一、二の型を説明するに止めず、可成多くの自動車を彙集分類し、其代表的のものについて一般的説明を加うる方針を取りたり故を以て、讀者本書を熟讀せば、庶幾(こいねがわ)くば今日の普通自動車に接するも、これが了解に苦しむが如き事なかるべし。而して本書は曾つてモーター雑誌に連載したる自動車の話を中心としたるも、其前後を追加したるのみならず、全部を通じて大なる加除訂正を試みたれば、大に面目を一新したるべきを信ず。終りに臨み、本書の完成に當り、畏友陸軍歩兵少佐奥泉欽次郎氏は、全部の校正を担任し、其勞を取られたるのみならず、本書の編述、材料の配置に關し重大なる忠言を與へられ、日本自動車株式會社専務取締役社長石澤愛三氏、モーター雑誌圭幹山本懸太氏の両君叉本書の出版に關し多大の援助を與へられたり、記して茲に謝意を表す。大正七年四月 在米國 柴藤啻一」
大正6年(1917)の維新後49年の時点でも、米国の自動車保有台数は490万台で、日本では2,672台となっており、その原因は自動車についての理解と知識の不足が最大の原因で、人々は未だそれが持つ大きな利便性の効用は啓かれていなかったといえる。
「記録集」に登場
昭和48年(1973)に刊行された「日本自動車工業史座談会記録集」に、昭和32年(1957)4月5日の第1回座談会で、「草創期の自動車工業」をテーマとして開かれている。このなかで「自動車製造の芽生え」の項で豊川順弥※ 43が柴藤について触れており、「ここで名前を出していただきたいのは、大阪高等工業を出た柴藤啻一君です。……若い技術者が自動車に入ってきたことには大きな意義があります。自動車はこの頃になってようやく軌道に乗ってきました」これに続いて日本自動車合資会社の石澤愛三も柴藤の同社への入社について触れている。
「サービス」の語は柴藤啻一から
大正初期自動車の普及に従って、車の円滑な稼動運用には不断の点検と修理が必要であることが認識されるにつれ、この仕事を自動車販売業と合わせて行なったり、専業として事業化されるようになった。
梁瀬長太郎が「自動車を益々発達せしめるためにはサービス、即ち修理の仕事が極めて必要なのである」※ 44と述べているが、「このサービスという言葉は大正5、6年頃日本自動車株式会社の柴藤技師長が海外より帰朝後、初めて自動車用語として使用し始めたものであって、時の大倉喜七郎男爵から「サービスとは何であるか」それを持ってくるように言いつかって柴藤さんが面食らったと言う挿話が今日残っている」と編者※ 45が注として述べている。
2 度の洋行
柴藤啻一は、大正9年(1920)3月から再び社命を帯びて自動車研究の目的で欧米視察を行い同年9 月21 日帰国している。
3月に渡米してまず、シカゴや2年前にも訪れたデトロイトなどの視察がすむと、ミルウォーキーの著名な自動自転車会社やオートバイメーカーのハーレーダビッドソン社を訪れた。
次いで英国に向かうため4月24日午後4時、2万5千トンの旅客船アドリアティック号でハドソン河を下って自由の女神像を右舷にみて大西洋上を一路英国に向かった。
このとき大西洋航路途上の船中で4月27日付けとして、これまでの見聞記を福岡日日新聞に「世界第一の自動車産地」と題して執筆寄稿し、大正9年6 月30日から5 回にわたって掲載された。
これによると、当地の最新の情報として現在自動車生産台数が日産5千余台に達し、その普及は進みニューヨーク州のみでも120万台に達し、元来機械であった自動車はアメリカでは「器具」と化し(大量生産による)廉価なる自動車の創造はさらにこれを「家具」となして、遂にはアメリカは人口10人当たり1台となるまでに至っている。これは、まず英国において自転車の普及は、部品製造の分業化、寸法の標準化、組立て部門の独立などによる生産量の増大と普及が起こった。これをサイクルトレード(自転車商売)という。英国におけるサイクルトレードは、米国では自動車について起こり、アセンブリング(組立て)として発達してきた。その代表的なものがフォード自動車による生産方式である。またの部品加工における寸法公差確立、自動機械の発達が要請されている。日本においては小型の自動車の製造を目指し米国の製造方式を採用するべきと考える。自分は既にこれを実行して2台の自動車を製作した経験を持っている、と柴藤啻一は述べて、欧州各地を訪れ9月21日帰朝した。
その後、新三菱重工業神戸造船所造機部長、新三菱重工業三原車両工場長などを歴任し、大正13 年5 月25 日逝去した。
竹場露嘉(1896 ~?)
竹場露嘉は明治29年(1896)1月26日、愛媛県南宇和郡宇和島町鋸34に生まれる。明治43年に南宇和郡平城尋常高等小学校を終えると同郡立水産農業学校水産科に入学するが工業への道へ進むため同44年(1911)4月に第2学年修業として退学する。翌45年に福岡工業学校機械科に入学する。各学年良く勉学に励み3学年以降は生長となり優秀な成績で大正5年(1916)に卒業と同時に熊本高等工業学校機械科(現熊本大学)に、福岡工業学校の同期同科の薄金夫、吉田高穂とともに入学する。同8年に卒業後大阪の住友鋳鋼所に吉田は神戸三菱造船所にそれぞれ勤務する。竹場は、大正10年(1921)に同所在籍のまま、毛利輝雄と同様に農商務省の海外実業練習生に選ばれて渡米留学する。母校同窓会への報告によると、同12月30日横浜を出帆、船中で新年を迎えて1月8日ホノルル着、15日にサンフランシスコに到着し排日の気配を感じる。列車で大陸横断してニューヨークに到着、その後Anderson Magnesia Products Co.で職工として研修するなど2年間滞米の後1年間を欧州を巡る予定であると知らせている。その後は、大正15年神戸製鋼、昭和7年佐賀県の唐津製鋼所を経て、横浜鶴見の株式会社芝浦製作所(現芝浦メカトロニクス株式会社)に勤務している。
葛西環一(1896 ~?)
明治29年(1896)9月4日、青森県青森市栄町に生まれる。明治36年莨町(たばこまち)尋常小学校(現橋本小学校)入学、同40年卒業して青森高等小学校(現市立浦町小学校)に入学、同42年、第2学年修業後に高等科第1学年入学、第3学年修業中に福岡在住の同郷の叔父である葛西徳一郎のもとに寄留して、明治45年(1912)福岡工業学校機械科入学、大正5年(1916)卒業、直ちに同期の中島虎雄とともに北海道室蘭の大日本製鋼所に就職するが、大正6年、新しい進路を模索のため上京する。大正8年(1919)東京梁瀬商会に入社、翌9年に梁瀬自動車株式会社に改組し開設された芝浦工場に勤務。昭和4(1929)、大阪の日本ジェネラル・モーターズ会社に勤務の後、昭和6年(1931)郷里青森に帰郷している。